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意識と‘ 意-起 ’

2016-10-10:
寝床でまた完全に眠らずに私のみているときの状況で、いきなり夢の映像みたいに白い複写紙に一度プリントされたかのような新聞のテレビ欄があった。夜の放映欄に“ タイムボカン ”という古いタイトルがあった。‘ なんだろう? ’と不思議にみるまもなくその絵は途切れた。

私は‘ 問題は無い ’と言えるときに夢見の実践を思いだせると気付いた。

2016-10-11:
( 睡眠前の )イメージ:
あきらかに神社の石製の囲いとわかる形、そこに左側から黒い車体・遮蔽窓のリムジンのような長い車が現れた。その後部は( 以前私が別の広場か公園のイメージに視ようとした黒い西欧クラシック車の後部に似て )緩やかなカブトムシ型みたいにもみえた。しかしその曲面部分は不明瞭なものに視ようとしてもはっきりとは見えなくてぼんやりとしていた( その一瞬その車体はもっと古臭いギャング映画にあったようなボックス型の黒塗り車体のそれのように、垂直後部に長方形窓が付いていた )。私はそれのなんなのかを‘ 見よう ’としたが、なにも表れなかった。
〔 私はこの直前に敢えて映像的に視るためにひとりエッチをしてみようとした。だが、‘ リムジン ’という形に反映されたように、ある程度の想像的な( 複数の )印象が働いたのだろう。私が両目を閉じてこの記録用に呟いていた処、私のこの見解に応じたかのようにその黒い車体の側面窓から女の子ひとりがムービーカメラを構えてこちらに向けた。その髪型は私が直前に想像したようなイメージに似ていた 〕。

2016-10-12:
私は寝る前に“ 意識 ”という語は私の試みには不適応だと思った。“ 意識 ”は神経的な受け型の意味合い以上にはならない。ここでは“ 意識 ”に代わる単語を用いたい( 私は従来語としては“ 意図 ”を使用していた )。

朝方また眠り込まずに‘ 監視 ’していた。
‘ 夢 ’と気付いているような意識状態にこちらから半ば‘ とり憑く ’ようにしてそれを確かにするということを繰り返した( 映像的印象は無かったが、連続的に )。その最中にはなぜだか私がそう知っていると言っているかのように‘ これはカルロス-カスタネダのやり方だ ’と思っていた。

私はまだ眠っていた。ある睡眠状態に対して私を起こす必要があるなら、これについては‘ 意-起 ’というべきか、と。
しかし‘ 私 ’の代わりに‘ ある意図 ’を置くのはそれを眠りの主体としてしまうということでもあった。