‘ 性 ’移行と偶然

2016-06-16:
ある‘ 女性 ’イメージに移行するということは、実際にはなんの外的関係ではないし、偶然以外の要素は無い。
( もし外界的に待ち受けと異性という要素が同時にあれば私は美しいと言っただろうが、もし反対におふざけ顔があったとしたら私は以前のようにノ!と言っただろう。

アメリカのよくある事件ものTVドラマがお話と無関係にルックス重視だったのと同様、ある職種・業務と外観との関わりが不明であるような場合にはそれ自体アピールとみなされる。同時に彼女にも業務との問題があるだろう。それらにも容易に移行できるようなものが“ 常連視聴者 ”だというわけだ。

けれども、どんなに美味しそうな‘ 食物 ’も、それ自身にはなれない。性的なロマンスは失敗する( 絶対に彼女は手に入らない )。
しかし私は却って性的アピールの薄い印象によろこんだ。必ずしも肉欲が外的現象や魅惑に左右するわけではない。特に肉体的本能に乗らなければ人物評価では埋没して面白味にならないという場合には力が必要であろう。私はそのパワーの原理から徐々に離れている。決して自身に駆逐やフォースを使ってはならないし、もし外界的に異性に対する圧力を覚えたら決してその‘ 範囲内 ’に安易に踏み込んではいけない )。
無論にも、自然体との問題と言って、ここには根本的に‘ ひとつであれたら ’といっている。
そして私は今回この移行に対するというよりは、この‘ 女性 ’に‘ 良い男性 ’を宛がうわけである。私にはこれは一定の収拾手順であるように思われる。これを試そうとした処、私は( 閉じた )視界にまた動きが起こるのをみた。

私が‘ 青いケープの婦人 ’像をみたのは昨年午後だった。ユング風に言えば、女性的原理である“ アニマ ”は通常目に映るようには見えない。しかし、それが一定の異性に対してこちらのイメージと関連させられているなら、これまでの私の経過から言えば、その形では夢みには現れない。私がみたものは‘ 動き ’の象徴的関連( 淡いイエローの内側面 )であってその偶像やそれへの気配ではないからだ。

晩の雨の止んだ頃合いにまた自転車‘ しぼうじこ ’貼り紙ライトアップでひと回りした。41号線沿いに高岳(たかおか)の交差点付近まで南下、そこからまた19号線沿いに戻った。

彼女(1)- 要素^の充足 :2016-06-28,