見ようの言い方 ( 視界によぎるもの )

2016-06-21:
身体的実勢が高まっているときに夢みに移す、という課題。

一瞬の夢みたいなイメージ:さかさまのもじ
黒板になにか書き付けている30代位の婦人。その手を上にあげたままチョークを斜め下向きに横書きする。
黒板に逆さに書かれる処の‘ 空 ’一文字。天地逆さまにその書き順を間違えないように綴る。そこで夢としてのそれは途切れたので、私は質問のつもりでイメージ的に‘ ? ’マークを付けてみた。すると、おはなしに‘ それは空調のことだ ’と言った( 私はそれをつるま図書館の空調設備のことだと思った。館内フロアは暑い時期にも扇風機等の環境なので、汗でるような気温では呼吸困難でも清涼感が無い。このまえ、ある来館者が受付係員に‘ 空調設備と換気 ’についてひと言話し掛けていたのを私は偶々聞いた。)それは私からの‘ 伝言 ’ではなかったが、私はなにか意味のある言葉だと思った。

2016-06-01:
私は“ 肘を曲げる ”ときに体のどこがどのようになにを作用するのかは分からない。もし肉体の構造・運動を知っていれば、“ 曲げる ”という言い回しはとてもおかしいだろう。私は指ひとつの動きにも“ 私の運動自体 ”とは言えなかった。
これをたとえと言ったように、就寝中の夢にもまた不可解なところがあった。私のコントロール下にあるのでなければ、‘ 私の夢み ’とはいえない。肉体にもわたしが意図的に動かせないような筋肉等があるように( 肉体・身体を意図的に動かそうとすることは当然夢にも働くだろうというライターたちもあった )、私が夢自体を発生させることは無理だろうか。
私は10年程以前には割合自由に‘ 街頭の新聞・雑誌屋台 ’をイメージしてはそこに明晰夢関連の新聞記事等を読もうとしたが、まるで半ば夢みたいに別のものがそこにみえたりだった。私はもうこの方法ができなくなったのだと思う。夢であっても半ば意図的なイメージであっても、わたしが意図的に‘ 見よう ’としてもそれ自体の論理には見えなかった。
私は寝ようと両眼をとじてみているような最中にこの視界の真ん中下から右斜め上になにかが跳んだような動きとして( その度に一回ずつ )あった。今朝それのひとつのタイミングが“ 花瓶をこわがる少年グループがある ”というおはなしだったので、あたかもそれが連動したかのようだった。もしその‘ 動き ’が本当に関連だったのなら、おはなしそのものも心理的要因のわけだ。しかし‘ 動き ’は毎回そのようになにかに反応したかのようでもあったので、それが逆のおはなしを誘ったというような場合は一度も無かった。
私は以前の私の記録に於いても‘ 小さな飛んだようなもの ’には‘ その時のきっかけがあるようだと思えた ’と書いたが、私には毎回そのきっかけがなんだったとは直接見当にならなかった。わたしは“ 花瓶をこわがる少年グループ ”という言い回しに性的な暗喩の一種とみなした。たとえば未熟な男子が女性ものをおそれるというのは古い童話みたいな言い方かもしれなかった。そのこと( おそれ )自体は矛盾している、自己心理的と思えば。
単純にみて、もし‘ 動き ’が心理的な第一のものと関係あるなら、どうしてそれが毎回同じ所から打ち上げられたものの球筋みたいに視界中の下からその半分右上へと決まったように‘ 動く ’のか、なぜ?というべきか。無論のこと、ここには他との比較検討にできるようなデータが無い。

私が左足を右足と同時に伸ばしてまた部分的リラックスさせようとしていたときに、不定形の透明な石( その内から白い光が発している )のようなイメージがあった。ほんの一瞬きれいだった。

過去のイメージノート - 視界によぎるもの,03,11-2011
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