私の近さ・意識とアスペクト

2016-05-29:
意識を持続的に保つにが、‘ 睡眠夢に対する私の接近度 ’は少しずつ増している。ある夢の場面に対してそこに私自身を付与しようとした。私は予めその夢に負けているような状態なのだが、要はそれらに根本的改革が起こらなかったのを問題視していれば( 夢に対して‘ 目覚めて ’いれば )なる。
私が上記をメモに付けている最中ある音楽が繰り返し鳴っていたように再生されていた。私は‘ あれはわたしが眠り込まずにいたときに映画ビデオの待機画面として自動的再生されていたのを聞いたときの記憶だ ’とすぐに分かった。8年またはそれよりも前の記憶だ。私は“あのディスク版”という記録は‘ 私が起きていなければならないが不完全な状態にある ’というその記憶関連だろう。

睡眠夢には制服高校生男子の一団みたいな者たちがわたしの髭をからかうのでわたしがそれに対して質問するという悪夢だった。
( 私は一々他人の髭を気に掛けるような者に変な子供だと思った。私は他人の髪の毛一本にも触ったことは無い。もし、ある者たちの連関がわたしに“ ちゃん ”呼ばわりする側の子どもと直系だったのなら、それが表立っていようと潜在的であろうと私はその全員を断った[ ここにはその目論見の自身は無かった。]
それらは“ かわいい ”というミュータントに変わったときに“ 憧れまたは催眠力 ”自身であった。だが、それも自身のストッキングに自身を包むという反映の問題であった )。
私は一方的に若い時代のままに私の人に押し付けるような幼稚さを決して信用しなかった。私はなれなれしいだけの家族面ぶりっ子を否定してきた。私が睡眠夢にやられていたように、私側の無いものはおそらく偽ものの影に負けていた )。
それとは別に、後の場面ではわたしは知人のような者と電車の中にいて私は向かい側に乗客たちの姿を視た。そこでは私は一見女性のような姿にも“ 性別 ”を気にしていないのが分かった。

2016-05-30:
雨の夜、わたしは両目閉じて‘ 夢 ’シミュレートしてみる。
また身体にあの微かな振動があった。

先々週頃まであの図書館にも一々私の名を口に出して云うような招きがあった。私は写し口の喋りにはいっぺんも感心しなかったし、現象的だとも思わなかった( むしろ現象は非言語レヴェルである。‘ みる ’ためには意識的熟知が必要であろう )。