見えない情報( 潜在 )への対処

2016-05-25:
画面3つの横並びに見ようとした。‘ 見えない情報 ’は解決整理されていなければいけない。ひとつずつに確認。応答は適当。すべての不調への対処。
これらをケータイにメモした後、わたしはこのケータイが変わらないというのを気付いた。例の六面体パズルは時に小さくみえたりがあったが、ケータイはずっと手許にあって大きくも小さくもならなかった。以前わたしは視界のものなどに対しても一時的にスケールの違いがあったのを私の日記に書いたことがあった。一度は寝床でわたしの身体が普段の1.5倍程もあるように感じられた。これらの例ではわたし自身を比較的に小さめと感じるような場合は無かったと憶う。もしそれがあったのなら‘ その時わたしは負けていた ’に違いない。
路上でけらけら笑ったような子たちに仮にわたしがそういう不真面目な顔をしたら、( それらがわたしの原因・理由であるかないかには関わらず )彼女らはいやだという反応をした筈だとわたしは思う。
わたしに悔し紛れのようなかきかたをさせていたのは“ UMA ”といっていた側からだ。子供時代“ UFO怖い ”のようなものもあったのだが( だからスピルバーグ映画をよろこんだのだろう、しかし当初それらは純粋な映像感覚というだけだった )、わたしはそれらとは外からの影響だとも思わなかった。

私の体と‘ 通信 ’する :2018-08-08

2017-04-20:

午後,エディット-ピヒト・アクセンフェルド演奏に拠るバッハ・チェンバロ名曲集( 平均律クラヴィーア曲集 第1巻・第1番,精緻で美しい )や“ シューブラー・コラール集( オルガン演奏マリー-クレール・アラン )”録音を聴いて更訂に出掛ける。私の夢見できなかったのでこれは連日楽しい作業ではない。

今度は右-臀部に痛み。頭に少し発熱したような感じ。

朝方の変な夢:
水辺の街のような所に見下ろすような高さに橋渡しされている連絡通路( すべては白っぽく清潔そうだった )。右側に振り向いてみると球場型ドームその頂上越しに少し高い( それらも白い )陸橋のような形に若い女がひとり歩いているのがみえた。久しぶりに‘ 高さ ’への不安感があり、視界にぐらぐらと揺れる。

2017-04-22:
私が‘ 夢 ’にならないのは私が“ 欲 ”原動としないからだ。
・‘ 夢 ’は観念的マターでなければいけないか( 観念的マターとしての‘ 夢 ’その発生 )? 
・私は潜在的ものを精査する。

“ コーヒーを淹れたひと ”
このまえの‘ 鉄道架線橋下の光景( いわゆるガード,そのコンクリート面と通路 )’は私には無意味だった。それが仮に象徴であったとしても、例えばコーヒーという飲み物が私には無意味だったというのと同じで、いまさら通過儀礼という言い方も無いと思う( 私はもう中学生たち自身に主-持しなかった )。むしろそのコンクリート面そのものにあったのだろう。

去年道端の女の子たちが偶々“ インド ”というワードを発していたのを私は北図書館との関連だと書いた。私にはそれらも不明だった。私がひとりインド旅行を想定していたのは2002年頃までだった。私は二度と街の女の子たちをみようとはしなかったので、インドと言えば“ 性暴力の土地柄 ”という社会的ニュース通りの話題ではあった。私にはグルたちこそ悪口横暴をやめようとしない欲の側だった( 私は一生女子男子を食わない側だから私の主権と言える、私はステレオな言い回しにはしない ),私の心理的洞察というタームにはまったく無関係だった。
‘ 夢見の実践 ’は道里塚のようにのこる。