自動性 | 夢の論理に同しない

長細い枕みたいな形のものをひとつずつ布を充てて閉じるという仕事場。その途中の手順まででその先はわからなかったので、別の婦人がその傍で作業をしているのを見てこちらから聞いてみた。するとその婦人はできるかなあ?と言った。
そこにいたのが‘ わたし ’だったなら私は頭に来ない方がおかしい。だがそこには‘ 面倒臭いでしょ ’という言い回しも無かった。それらが自動的にある作業を行おうとするからこそ、わたし自身に喝破すべきだ。すべてはわたしの自由意志に拠らなければいけない〔 否定形に終始するのでなく、意思的に 〕。

わたしは凡そあらゆる‘ 仕事 ’に対して‘ これは夢の最中であり ’私に拠ってやめるかその自動性自体を永久に無くさなければいけない。‘ 映画好き ’以前に映画自身だと言ってしまえるものたちには常に致命的なこのような問題がある。あらゆる一瞬に適用できていなければこれは死んでいる。

2016-05-05:
わたしは眠りに対して否定的のように、イメージ自体にも‘ わたし ’とは言わない。凡そ連想的に‘ 想い浮かぶ ’ものはわたしには無意味だ。

今朝のうちに、窓枠木製の桟みたいに縦横に組み合わされたような形の内角ひとつに暗い隙間があった。それは‘ 猫の目 ’だ。

しかしわたしはわたしが依拠するもの自体という望み方はできない。それは異性というものにわたしの体を預けてしまうのと同じ事だからだ。わたしは事件を誘いはしない。“ だれ? ”という呼びつけにもしなかった。

わたしはまたわたしの心に緊張をもたらそうとしている。

2016-05-11:
‘ また夢に失敗している ’。
‘ 夢の論理 ’に対してわたしが協同するというようなことは無い。‘ 夢のもの ’がわたし自身だというのが回路なら、わたしはこの回路を無意味だと言う。わたしには偶々の親たちの都合などわたしの都合ではなかった( たとえに、ある国・ある会社という言い方ではわたし自身のアイデンティティではない、わたしがわたしを守れないのならウソの子だ )と言ったのだ。
“ ゲーマー ”の欲をわたし自身だと言うことは正しいか? 
わたし( 以前 )一度は‘ 夢 ’のあいだに寝床に体があるのを憶いだした。しかしわたしは‘ わたしの肉体 ’自身であることを否定している。もし体自体が一致点だったのなら、わたしは生殖能力自体を否定すると同時に‘ 夢 ’を断った。‘ 夢 ’に協同することは( たとえに、ある既存の曲が‘ わたしの心に浮かぶ ’ことは変だとわたしが言うように )わたしが体の側に負けるということだ。だから、ここにはなにがプリセットでなにがわたしの規定かをはっきりとしなければいけない。