体の発生,一瞬のイメージ等

2016-04-10:
わたしが朝方少し寝床で休もうとしているうちにトタン板の半ば壊れかけて部分的に空いてみえる小屋みたいなものの外観( これは一瞬の夢のように絵としては具体的だった )。もう1つのイメージには3つの長方形の石壁のようなものが少しずつ不規則に傾いた( 大きな建築物遺跡の壊れかけた外観みたいな )無彩色-残像のような印象。その壁前にひとりの歩いている人影があった。

2016-04-15:
‘ 夢の記憶、夢と記憶 ’

・ぜんぶを‘ 夢だった ’という。
・わたしは今いちど‘ 結晶化 ’する。

‘ わたしの両足は伸びる ’という動機があったからか、朝わたしはビネガー飲んだときわたしの両足におぼえた。

2016-04-19:
昨夜から朝方、わたしは強い眠気とともに寝床に両目を閉じた。そこには特定の物形や色などは起こらなかったが、なにか普段よりも風雨が発生しかけたかのように動くノイズみたいなものがあった。

色の発生点から始める。あかるいブルーグリーンのドット。

わたしの左足に‘( 左右同時に )押し出す ’という新しいアラインが生まれでる。休息前にわたしはこの左足の痛覚以前のラインにわたしの幼いときの記憶が関連して( 想起されずに )いたかもしれないと、絵に見ようとした。すると間も無く静止画のように子供たちのクリスマスパーティーの場面にみたような、幾つかのらせん飾り付き円錐形がみえた。わたしが昔そんなものを頭に付けて町内の催しかなにかに参加したという記憶だろう。これが直接の肉体関連記憶かどうかはわからない。わたしにはシャーリー・マクレーンの自伝にあったような( 身体の特定の部分に針などを感じてそこに集中するというやり方 )想起または想像がわたしの連想としてあった。
わたしは幼少期に‘ 足で蹴りだす ’を意識的にしたという記憶が無い。しかし、常に体に引き付けるような抑留よりも、より押し出すような活動の方がわたしの足には心地良かったのだろう。
外から受け付けるよりも心-体発生の方がより良いことは自明で( 食餌よりもその本質が意味的 )若いうちにもっと身体的に発現をする機があればいい。

2016-07-09:
一瞬のイメージ・
お店ショーウィンドーであった筈のガラス枠等越しに丸テーブルなどの西洋家具がいっぱいに置かれてある様子。

一昨夜からの自転車パンクへの修理に時間を惜しんで尚も散漫だった。その夜、Sg町からN駅への途中で空気抜けに気付いてSn通を歩いて戻った。前タイヤのパンクかと間違えていた。翌朝わたしの両足は普段よりも伸びたように感覚されたのでそれは嬉しかった。次の日にはTm公園手前で後ろタイヤが破損した( 翌日修理を試みたが、未だ漏れがあるようだ。)
私自身とそうでないものとを見分けるというこころみは私には常だった。

今夕私がきいたおはなしでは、彼女は‘ 椅子を利用して気を感じる ’という内丹のような自己方法を持っていたのだそうだ。いわば、水泳のときには水中にいるだけだ、と。しかし、もし彼女が‘ 周りから気を採り集める ’という( 先日私が書いたような )やり方をためそうとすると、逆に散らかったように、よこしまになる。あたかも“ 財布が沢山あるのと同じだ ”と。それで彼女は3秒でわかったらしい。たしかに彼女には周囲に割れないような( 私の目にも一切気付かないような )自己のほうが良い。もし彼女がヴァムパイア化すれば“ ビール飲みのところに転職する ”などと言いだしかねない。
私は20年も内丹養生のような試みをやらなかった。どうして? 外部と通じるため? なにか他の者をしりたい? エッチ自体? ボールつかう? 
私は今一度たもとうとする。来年その‘ 椅子 ’をやめて立ち上がっていようとするだろう。