杞憂をやめる[再]

2024-01-20:
..もの憂いメンタル質の“予定”患い,実際には前向き意図の欠如だ。既に何年もまえに私は“杞憂をやめる”と書いたことがあった。-だから,これは単に繰り返しの過ぎない。
視覚的印象のたとえで言えば,一々“物”の輪郭にとらわれては観念的にみなければならない-かのように( 音像と同じで,あたかも特定のものに向かえば特徴的“ それ ”であり,以外とは視ていない-? )

私は調味料の容器を振ったりする場合に,“これくらいの分量に”と思いながら,手で容器を振ってみると-以下に止まったりする。特定の材料を多量に食べたりする偏りをやめたのは本当だ( 米飯など,毎日いっぺんに100g以上摂れなくなった。野菜など何種類もあったら,少しずつ合わせて皿一杯の量にできる。最近テレビ画面にオムライスやカレーライスの皿が映った度に,“過激だ”と呟いていた。)
“-やりたさ”というウソを完全に言えるだけでいい。
“じ”と“心”とは違う文字だ。

2024-01-21:
時折,このような原稿に読み直したりのあいだに,違う時代の匂いというような感覚なのか,私の気分ではない,なにか遇ったような。

2024-01-22:“その曲は()在ったんです。”

昨夜,“ アストリッドとラファエル 4 ”にみかけたが,なんにもわからなかった。
-インスタントラーメンの袋を開けた瞬間,昔嗅いだプラモデルのような匂いがあった。
先週なんでか,塀の傍に錆びたまま置きっ放しになっていた鉄アレイが目について(-というより,私の意識になって)室内に移してみた。そういえば,今日まで憶い出されなかった,一度2Lペットボトルに水の詰めて室内隅に(腕力用)置いてあったのも,(心理学よりも健康-食材栄養に関する)コピー用紙等のファイルなどと置いたままだった。

左手が右腕にかかれば右腕に抵抗が起こる( あたかも婦人たちの言葉づかいが私をかたくなにしたように. 私は“反面”と言うべきだったが. )
このように,また私は“気づこう”とするだろう。
“それ自体”が保持されうるとき,(この視点は)存在した。

“それ自体”と“私”とを( しかも一体的に )見なすことはできる。“客体的な夢”というよりは能動的想像みたいだ。“ここ”とは物理的なミーターであって,明晰夢見には必ずしも“ここの私”である必要は無い( 視点さえ予めきちんと設定されていれば。しかし,“これ”のためには“これ”のなんなのかと問う意義が先ず。)

神経自体に“反面”を持てば,衰弱させるおそれ( 目を弱らせてしまう. )
初めて六面体キューブのパズルを“合わせる”のに成功したとき,私はテレビに観ていたので,そのあいだ両手にどうしたとは判らなかった。私の意識的にやろうとする場合には無駄との繰り返しばかりで -なにひとつおもしろい?だった。

六面体の“変形”に関する当時記述等,
カテゴリー: 視覚的印象(感覚)変化

..自転車の最中に度々注意させられたように,私が気づかないうちに(気配も何も無くても)自動的に歩き程度に速度を下げた瞬間,物陰から急に他の自転車や子供などが走り出てくる-といった突発にひやりとさせられた( もし私が普段通りの速度でその歩道を行ったとしたら,確実にその子たちを跳ねとばしてしまったに違いない, )以前このことについて書いた覚えもあるが,やはりも無く,(五感ではない方の)本能的な察知か,同時に予めそうなるのを知っている部分が私の無-意識のレヴェルにはあるのだろう。(どうやら向こうはこちらに気づかず走り去る場合が多く,その子たち自身には事故死の危険が告げられるべきだった。)そのような“死の危険”回避が確実に可能なら,交通に限らない。私-自身のうわごとのために命の危険を無視するような“突っ走り”は在り得ない,しかし私にとっての無-意識が(“夢”のような形で,あるいはそれ以前として)視えるかどうか?

最近私のねむりかけたような一瞬ごとに,また自動的な夜道での印象みたいな絵は遇ったが.,ある場所での光景そのものではなく,なにか“夢”の介入したような違った点の遇ったりは変だった。例えば,近所に近い,ある逆L字形の道路沿い,その通れない片側は会社の敷地で,その前に歩道が付いているだけだ。-その不思議な“イメージ”では,その門に近い右側に,なにかドラッグストアの店舗みたいなものが建っていて( 実際その近くには昨年頃にドラッグストアが開店したのだが,そこからは視えない )正面右側に見慣れないもっとモダンな記号イラスト等-縦並びの青っぽい看板だった。
重要な点は,その“挿入”に対する視点自体が欠けていた-かのように,その“イメージの現れ”は当然そこに在るものを同時に現したか示した- 無論,私には具体性の無いものなので,そのような“合成”に意味あるのか?という質問である。
論法的の視点も既に存在しない-無論といった場合.,実際の光景にみている最中にも(それとは直接確認できない初めての通り道では)物理的そこに在り得ない筈のものをみたりしていたかもしれない。
私が視ている夢”というセットが現に完璧であったとしたら,このような杞憂も無意味なのだが..

合成された通路イメージ? :2024-01-31 / 体向-像現

2024-01-24: 広大な門
昨夕ようやくパブロカザルス“ 無伴奏チェロ組曲(JSバッハ)”演奏借りてみた。県図書館の同名CDはずっと貸出中だったので,また市立図書館の空いている物を直接借りに行ってみようと思っていた。昨日はちょうど“国民的ブロッコリーの日”だと思われ,(ちょうど私も毎日少しずつ“ -9割捨ててます!”の実践でブロッコリーの芯などをかじっていた。昔“食べるな”と言われていた部分等だ。蓚酸やゴイトロゲンについてはカルシウムや海藻ものなどで成分的にバランスを考えればいいんじゃないかと一々ためしてはいた。 このまえ“乾燥大豆”と“椎茸・マッシュルーム”の効能に関して西洋との一致した有効データがあるとも知らされたのだが,これらがどういった論理なのか未だ理解できていない。)
以前行った街道沿いまっすぐに近い所で,地図上に簡単に見当を付けておけば先ず迷い込めない地点だ。その付近に“ ハローフーズ ”と書いてあったので,ついでに何かありそうな感じをおはなしに聞いてみようと思った。
[ 予告おはなしは“通行量の多さ”を言っていた( 実際,その街道の狭さで歩行者等がバスから降りれば自転車の通る余裕は無い幅だった。)その中途に,川名公園の手前で私は信号停止していたが,そのとき公園側の歩道でガチャンという衝突音と女子の声が遇ったのでみたら,ちょうど自転車の女子と男子とがすれ違いにか倒れたようなところだった( 最初にその音だったので私は直接見てはいなかった。たとえ偶々12人いたとしても自分たちの瞬間を後で正確に再現できるとは限らないだろう。)]
(何年まえだったか私が傾斜路トレーニングに利用していた方向との,)ある交差点に近づいたところで,急にまた“若い子たち”の笑い声が度々遇った。以前それが余りにも頻繁だったので,私の通行に際して何かわざと言いたがっている子たちがいたのだろうか?と不思議だった。一時期の私-自身にその理由を還元的に見つけようとしたこともあったものの,私からはもう“引っかける”原因は無かった( 今回私はあのCカスタネダ著もドンファンMたちの台詞として“ 輪の一方を引っかける ”というように述べたのを憶い出したのだが,自己投射の問題は何も反映できないし,たとえ“ 呪術的 ”に利用できる可能性があったとしても,自己-憑依といった見方のほうが原理的だと(このまえ私は)思った。)それで,私はその通り道には何年もまえの子たち自身が残ってうろうろしている地域なんだろうと思っただけで,ここには無かった。( たとえば,一日のあいだに偶々私の横で幾つも“咳払い”が遇ったりした場合に,“私の側”がそれらの共通事項として一致させようとしたら,結局“私が”こうしてやっていたのだ!-という自己還元説になってしまう. )-だから,それらに鑑みる-という言い方は当然だけれども,そもそもそのような自己還元の要求や要請が適切だったかどうなのか-であった。

私は地図の印象通りに特定の交差点から数えて町内に入った。-“ここか”と止まってみた前の門には,“ -土木事務所 ”という表札が付いていた。
そこのCD棚も目立たないサイズではあったが,その中に“ ヒルデガルド・フォン・ビンゲン ”という見出しが遇ったりで,不思議だった。