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気管

2022-07-24:
おはなしの識閾を(比例的に)下げる。

かれらは子どものように笑うだろう(右側の固張りがとけるとき。)

舌の上(点け)位置を再調整してみる。

2022-06-23: それは夢
これは夢だの忘れられていたあいだ,直後に)なにがどう記憶-連想になっているのかをひとつずつ辿ってみる。
( 自動的な連想そのものについて,一々に )夢見条件-観察眼の対象化して視れるか。
これは夢だと,これ以外との障害。

いつ逸れたのか?
(内心の)言葉やおはなしに始まってそれとも想像場面に移るというパターンが見られた場合; 次回おはなしの始まりにそれは夢だと念じてみる。(最初に)絵のようにみえたら,そこで念じてみる。

“今日地震がある(午後3時-午後6時)”と言ったが,聞き直してみたら,なにか個人象徴的な意味のようだった。しばらくこちらの地方では異常現象は無かったので,能登のあと(-父の出身地)でこちらが,という自然な読みだとも思わる。(地図の絵として“×”印は紀伊半島南沖に付いていたが,黒い“×”は警察的な象徴かもしれない。)
[ 次回“市内ルート”のひとつ,こちらの近所から用水路沿いにK埠頭まで伝うだけの想定が,ちょうど“不発だん撤去”の避難範囲に重なっているようなので(次週26日?)どのみちだった。 ]

“意識”とは常に一瞬まえの参照である(という見方。)

2022-06-22:
ある面倒な感情の起こった時に( 私はそれ自体には応答しない. )観察同時に沈思黙考するかのように‘ これは夢だ ’と-(黙ったまま)意識するだけしてみる。
私の何かをするのに,まだ“朝-昼の時間帯”にとらわれている( それらは外来に過ぎなかった. )未だドリームタイム(ゼロ)ではない。

2022-06-21: 非人格-非感情論
昔,“地震,雷,火事,親父”といった災厄の語が遇った。私は動物的な問題には同一否定し-解消しつつあるので,その文句も一々生物や感情などのたとえに“天然現象”と当てはめて言うのが適当だったろう( そのどれにも私の“自身”とは言わない. )
“普通の食い気”というものさえ,それらは現象的かもしれなかった。“ダブル”の正体見えない瞬間にこそ“それは遠い”のだから。
しかし,なにもかも夢見(明晰)の機会である意味だ。

“明晰夢見の実践(ウェブサイト検索)”を唱えながら具体的イメージングの能動的想像(身体性の動能)で自らプログラムしてみる。

2022-06-20: 気管
一個の感覚的な‘気力’だけをひとつの球のようにこれに戻し,これだけを感覚的な拠り所とする。手前のこれに拠ってのみ,うごき,これに拠って,みる。
これは従来後付けの言語的な問題とは噛み合わない。言語自体に依って因習化された事柄とは,相容れない( -中間生産物としての“もの”は同一的なグラミックの催しに過ぎない. )

朝方,寝ようとしたが頭の中が張っているかのように寝付かれない。両目を閉じて楽にしていようと私の意識をゆるめかけたが(なにか通路の奥行きにみたような)その左側に青っぽい素早い遠雷のような瞬きが遇った。雨降りの時に遇ったような(音がしているような)印象。
昼過ぎ,あるテレビ番組にオオゾラ-マユミさんという女優名が出ていた。そう言えば,夜-朝のあいだに“マオ”という名が遇ったとき,私は“真央..? タイチ-マオの名だったら,以前,美と若さの新常識といったあの番組に関して,私は書いたことがあったよ。かわいらしい体裁の番組だった(ワダ-アスカさんのあの料理レシピ等は番組上のだったのかもしれないけれど-)”と答えてみたが,なんでかその最初“タイチさん”ではなく“オオゾラさん”の発音に換わっていた。もしそれが(私の視認に)番組放送予定表に視たあとの時点だったとしたら,脳のどこかに周縁視として残ったかもしれなかった。

“AI脳”に関して簡単に読んでみたかったが,サイエンス雑誌等に借り出して読むのが煩わしくなった。先ずこちらの脳自身に在るもの無いもの全神経的-検索できたらいい。全地球上的なAI脳は従来人類の“神”という限界を越えなければならないという論議が起こっているだろう。

私の一時期ファイルしていた“超感覚”に関する引用話題等から,イアンスティーヴンソン“テレパシー的印象等(1970)”のピックアップ部分を引っ張り出してみた(ロザリンドヘイウッド夫人の記事を良心的に読んでみたかったのである。;能力研究-)
実際の人間関係の充溢して在った方が( 人間の正しさ - メンタル性ダブル想像になりにくければ, )すっきりしていて霊感には良かっただろうか。

‘気管’は通じの問題ではなく( これも“退行した”状態の,若い日自身への )再現だという見方。‘管’といえば,機能の必要性だ。それではなくても( 閉じたループ自体であったとしても, )自他-要素に自動的依拠してしまうよりはずっといい。他社サイクルに乗ってもこれ自身のモーターいえない。
もし“言語化(批評化)”されたりするのが辛くて難儀だという方には,この何年分かの私の記述次第に参考点は遇ったかもしれない。同じ失敗のために面倒臭い回り道をしなくても良いように。