実相と外観

2024-01-10:
夢に現れる“外観”は(常に)取り違えられている。それらは真相そのものではない。
“ 夢見の実践 ”時代は(私の-求められる-自体が)主体性だった。
“好き嫌い”の加担するものは(どうしても)ひとごろしである。( -“欲しがるもの”自体によって食べていれば,必ず計算外の破壊は起こる. )“ -に駆られる ”という言い回しはしられているが,自主的? 致命的だ。 自動的な表われに“私”といっている。だれの目的? なんの?
ひとのためといいながら,-自身に何いっている. すべて,ぜんぶ,テレビかきみたい...
ここになにか言い返しても,-自身と対したのみ,-目につくもの,耳に引っかかるもの.,
“好き嫌い”の犠牲..
“好悪”の根拠? それらは記憶かきかも.,二重の記憶かき.
のらないこと,夢-だから,のってはいけない。“われわれは”夢だということ,(最初に)述べたように. 描いたに過ぎない。
“ 好きな食べもの ” ..“ 記憶性の腫瘍 ”なんてものは,本来ありえない。
“ 平均的なカレーライスにしとこうか ”みたいな。
もし“ポルターガイスト”に外在現象だという見なしをしなかったとしたら..(“ すべて私のテレビ番組だ ”-といったひともある,原理的かどうかは問題違いかも-不明 )
“ 自主的 ”とは口先ばかりだったからなら,(“感覚活動”に伴う同一感の)受け一方になってしまった。たとえば,TVニュースを視ているときに,実際には何をやっているのか,(視聴者いう言い方が?)こどもたちは“ 放送人 ”を気に掛けないだろう。夢や幻覚と何の違いも無い。
“私”否定した,“他”も何も関心の理由にならない-というのなら,一体なにを見れないのか? ( “私”が同一として=監視役だった場合には, )“私”自身の否定- 即ちその視点自体の消失だった。 ..夕方過ぎスーパーマーケットのお寿司コーナーに喋りながらみている客たちを(私は)後ろから不図ながめたりしていた。以前“ お寿司という価値観について ”思ったが,そこでは“ これらは夢だ ”と言いながら見るような理由も無かった。
-やはり細分化されているからだ。(私は),そのような場所に全体としてみていたのではなかった。動機はそれ自体であって,“私の夢見”には無かった.,そこでは最早“ すべては夢だ ”とする見方を原理的に問うような自称性も無かったのだから。
..むしろ,“すべて”という従来の言い回しこそ,視点的にとっては不利だった。それらは逆転するわけ,自動的存在できたかのように。 ここでは外在すべては否定されなければいけないが,同時に私であるから“私”認定に依れば,“他者等”との対称化する- しかし,今更それらの夢として根拠にしたいわけではない。だからも“私”と“何々”である状況設定やそのようなメンタルの対称性自身を見分する必然であった。
ここからは“他”に質問をする必要も無い-と,気づいてはいた。[“すべて”が駄無だったのなら,私に何か言いかかるわけも無かった。]

まるで以前の道筋が現在の目的に当然のようにあらわれている.( 逆の順で言えば,今-現在目的でみている筈のものに,あたかも以前のイメージが影じられている. )

視点が,未だに実質化されていない問題。
光景と視野,先ず視界に腕が在るとき,この視点は腕に焦点するかもしれない。..が,だれかやなにかが向かってきたり,外界的ななにかに向かったり,観念的-概念的なものに移ったりしなければいけない場合に,この腕という意識-感覚の象徴ひとつきりに戻れるだろうか? たとえば,今この右側にはテレビ画面が遇って,“私は”ペンをメモ用紙に動かしている。これの焦点は何だろう? “私の腕”でも“夢見の観念”でもない. また自動的にか指先にペンは回りだしたのだが,“私の行為”ではない。 ..夢の状態と同じだ。無自覚に-といえば,“私”かテーブル上の物かどうか-,そればかり. 先ず“私”は夢を見てはいない. それは“私”ではないし,“夢見の視点”でもない.

2024-01-11:
..しかし,“すべては受動のものである”という(逆接こそ,)明晰夢見への基本的態度だったのでは?
たしかに,ここでは一度“ 自発性の夢 ”としてあらためるべきだ-という,反省いっぺんとうから更新の本意だとは言った。-だから何も聞けない-という言い訳も無意味だった。意味として完全にこれだけだ;(夢であり,夢だ-といっている。すると,夢は黙りこんだ。常に単純なことを,“捉えよう”と難しくして,それがために,また見えなくなった。もし-誰かに“あなたはこういう人間で-”と,こちらの想像通りを(それがなんのイメージなのかも弁えないまま)こちら一方的な言いかけしてしまったら,-だれも言わなくなる。
わたしは昔“同想生たち”のイメージを持ったが,あとで非常に後悔した。あるキャラクターたちに関してあれこれと語ることが,それらがすべてだという(限界的な意味合いを)超えないものだったのなら,なにも現れはしなかっただろう。
“自発”だけだ-という,というなら,ある意見のように,“明晰夢は不可”と言った。本来ものは観察対象ではなく不可知だから,心理的発見のこころみが副次的な問題を考慮する時には,(夢見者として)あれがしてこれの予告的効果をセットできるか- (自ら)夢の論理自体を対称化しうるのか?
このような“考慮”を棚上げにしながら(たとえば)身体的具体性といったやり方で‘ 夢見 ’を可能とする,(おそらく)“ 身体 ”自体は離れわざもできる,そこでは色んなひとや雑多なものに出会うのだろう。
-なぜ,そんな夢をみたのだろう-?
あの時期(私の)夜道での自転車うんどうでは,道筋や時間-体力といった物理的な条件を利用した。“身体的”といいつつ,実質的には夜道の印象等がイメージとして(または見慣れない形で)半ば自動的な-再利用となった。 私は“箱”のたとえについて書いたことがあったと憶う。仮に視点的に(私の肉体から)離れたとしても,内的に一致して外部それらを眺めていたとしても,肉体の具体性は最大最小の“焦点”であった。( ..以前述べたが,私は“夢”では未だにこの体以外のなにかに移るような意識的こころみをしていない。)これは単に押し着せみたいなもので,いわば一生のメタファーみたいなものだ。つまりは,“他”に投影していても-自身か何かに憑依していたとしても,たとえには違いない。
私の場合,いったん左半身に(身体うんどうを通じて,自発的に)通そうという努力に拠って強化-一致した。右半身では未だに不完全なのだが.,これは自動性や受けとの象徴化というような“障害”以前に,完全な自発というには抵抗が遇ったからかもわからない。(私の)意識性が右側との一定関係に在ったとすれば,これ自身を“受けなく”する- ところが,これ自身との意識的符丁といったものが全く無くなったとしたら,(私は)その場から居なくなるか,先月26日晩のように,この状態からは憶い出せなくなるのかもしれない。
しかし,この右側という捉え方にも,今ひとつ矛盾あった( あたかも感受されていない“痛み”のように..? )

2024-01-12: 対称化との問題点;
..あること(意識的に形となったもの)でなければ,私の心的内容として日常的保持されない。通常の記憶-連想的にでも扱える(記憶となりうるもの)でなかったら,私の一見普通生活には表われない。
..だから,“他”のこととして想い出される-問題であったとすると,それにはトランス的な要素(動機-?)と見なければいけない。そのような自動的な連想の類いは“夢”とは条件点け成っていない.,これ自体“私”の扱いとは言い切れない,それ自身-存在性であるかのような不可分のものに,(先ず)明晰夢見の理解が必要の条件とは言わなかった。
ある関心自身,自前のものであるかのように見なされてきたのだが.,これ自体について夢ですと言ったとしても,検分の対しには成っていなかった。あるいはそれ自身として振る舞ったりする,同一犯だからだ。
もし-‘私’という一点で対称化する-しようとしたら,“それら”すべては夢の表れだ( 一点として徹底できるとしたら。)[ 私が一点対称化できる-とするなら,“それら”すべて夢の表れだった。]

2024-01-13: しらなかったこ
いったんぜんぶ解放しなければいけない。
逐一“別のもの”に捉われるようなことは,明晰夢見にとって非常にきけんな問題となる.,(先述のように)時に逆メンタル対称化を免れなければならないとしたら,“受け”の要素-なんの希望あったのか? 精査しなければいけない。
..最近また通行人などが(不用意にか,)無関係にも不意な私の方へと近づいてくるような場合が度々遇った。そこでは“反転”とみることも直接不可だったが.,私は“かれら”の死にかけた過程だと見なすこともできる( 一時期,死にかけたように弱った生き物などが,私の首筋に寄りかかるように,あたかも暖をとろうとしたかのようだった。そのころ私はまだ表面的には無神経そうだったが,その実ヴァムパイアだともいわなかった. )
もし-“私”が,右側に抵抗されていたのではなく,私として意識保持されていなければいけない-という前提条件のためにこそ(,“受動”に甘んじたかのような状態を)自発的に動かそうとしなかったのだとしたら-?
あるいは,忘れられた記憶のために-?