自動的な能動性との“夢”-問題

2024-02-01:
-敢えて“受ける”という態応は,興味関心(自身)の対称形である。
“すべて(を)受ける”方式は,もう一度‘ 意識的 ’となるための視点性を確保できる。詰まり,意識的でいること第一目的であるかぎり,この点は有効だ。

( “排除”しようとこころみたときに,対外的なそれらは逆に“こちら”を引っ掛けようとするか如何にも奇矯な態度を示すだろう( “私”が増々そのものを排除しようとこころみたに過ぎなかったから. )“ひとりになりたい!”と訴えるを放っておかない,たとえなのである。)

瞑想時に,“いや,私はひとりなんだから”と呟く者もいないので,逆にいえば“すべてが”襲いかかるであろう(ひとびと,おにおに本位に?)
あらゆる人格のモデルはどこにあった? そこ? あっち?
だれが,なにが,“私”を規定してうる?

“ある忘れられなかった音楽”
-“観念的にみる”行為は(このまえここで前述したように,)投射的であり,自動性によっている。いわば,“文字の書き方は在った”が,古いもの自体との利用に過ぎない( “性的な好み”といって自任するかどうか-の問題と似ている。)
-まつわる“それら”であることは今回‘ 意識的 ’とは無関係だ。

2024-02-02:
決して“発火”させない食べ方(“ 加速 ”をつけない.)と記してみた。“感情”や“食事”に限らない,どんなことに適切とは。( 夜,空腹に食べたくなった時,おはなしは“それは明日の(食餌だ)”と言った。)

2024-02-03: “夢”の理由?( 順序間違い?)

ある“ハプニング”に対するメンタル反応は,過去形である。
昨夜(寝かけたときに,)一度あの“ ..身体ごと落っこちかけたかのような感覚 ”遇った。その直後,私はそれについてこれ以前とは違った見方を持った。通常,そのような“ 体の落下しかけたような ”感じの所為で驚いたりひやりとさせられた-というのが普通の感想だった。-だが,それらの順序は違ったのでは? 私はいつもこうしていたように一定の意識を保っていようとしたのだが,( その身体との感覚的一致を伴っているか,これを条件-これの前提としている,. 前述-- )これ-が失われたときに,私はそのような“リフューズ”を意識的体験できるのか?という問いだ。
無論“ 身体の落ちるような感じ ” - 疑似的な,五官からの感覚とは非連続的なものだったのだろう。そう言えば,“階段”や“路上” 踏み外し落ちかけたような-睡眠夢の印象に近い時も遇った。[ カテゴリー:印象 ]
物理的身体感覚とそれとは違ったものだ。-だから,(あたかも,ある実際の光景印象に不思議なイメージの“合成”されたかのような例の瞬間みたいに)身体との感覚-意識の失われたかのような瞬間,これの擬似的身体として再現または仮想される意味だったかもしれない。
もし“ 体 ”無しに“ ここ ”として認識されるとは在り得なかったのなら,“ この体 ”の喪失するような状態は無い筈なので,“人格的存亡”といったのと同様に,先ず不安や恐れであろう.( 私は身体感覚の無い“夢”もあると思うが,もしそうなら通常の記憶にはならない-と思う。)
-だが,“身体”喪失との恐れが原因だったのだと言うと,それの“..無いところに落っこちかけたような感覚”となった理由は不明であり,それ自体がなんらかの記憶や心理的再現のような現象では?という個人特有の見方は(これやそれには)当て嵌まらない。

2024-02-04: “外圧”に乗らない。
..いつも“外圧”に従わない‘私’でいられるかどうか- 単に口先で“清澄さ”という呟きを繰り返す振りとは無縁だった。ここで言う“外圧”とは,-自身への価値観との問題,いわば,(たとえにも,)“おすしがせまるのか”といった質問の類いであった。
-“元型”からの“おはなし”化という-(これも)無効性.,
私はそもそも“夢”のイメージそれ自体は元型に不正確なのではなかったか?とも思っていた。“夢の素地”と言うときに,“夢”のどのレヴェルに“素地”と視るのか(視れないのか?)
心理的に表現される何らかの“夢”だという観点で読む以上,それらの原型は何なのか?という質問は当然であった。どのような世事にも一般的な模様ばかりで( このように質問しかけると )それらの元素は正確に表わされないまま(,殆んど綴り替えか繰り返しなんだろう-)と思う。
無論,それ以前に,すべては“特徴”に過ぎない。反対に,もし“元”から見たとしたら,一々“特徴”化されているわけだ( 個人的な実相としても,内面的な自己像としても。) “元々”そのような形など持たないかもしれないが,メディアであろうとする者なら,“受け”と称しつつウソをつくだろう( まるで他のものに“自分”の名を呼んだかのように- )“重要性”はそれらの自分-自身であり.,あたかも無音に何かと聴いた振りをするようなものだ。

他のイメージを借りて自身と言ったりすることは如何にも簡単すぎる( 以前,私は私に対して不適当な口が向けられた時には,“ あなたはそうかもしれない,私は存じないが.. ”と返したものだ。“ それが(あなたたちが),なにか?”と言っても同じだったが,それにも反対向きの理由はあったのだろう.
もし(私が)“ 彼らが私を頑なにしたから ”という原理的な支え方をしなかったとしたら? それらの順序的な表れさえ反転されていたかもしれなかった。 時に,ここでは“ 明晰夢見の実践 ”が未だに正当視されていないという見方自体の誹謗に過ぎた。)

2024-02-05:
-“ それ ”が,ある対称形であるなら,“ これ ”も対称形の一方かもしれ無い( あるいは,未然ではなく,過去からの. )“ これ ”自体やらせ(の-ような-と見なされる-もの)と思ったなら,だれも信用の於ける“人物”も居ない。“ これ ”も無ければ,生殖や国,メディアといった生死に見いだされることを固守的に言う者もいなかった( もし“夢”の最中に“ カップヌードルで建てられたピラミッド ”が現われたとしたら,よろこんで手をのべるだろうか-? )