[ 最新:2024-12-12. / 最近日記は
夢見の実践f:読書記録等にて更新中
(;2025-01-10 ) ]
2024-11-14:
舌においしいものは毒になるおそれある-が,理論的な食べ方はもっと酷いかもしれない。
両足からきちんと(自由に)伸ばす,一日一回?
2024-11-13:
今月1日に,植物雑草関連で借りていた3冊の貸出期限と取りあえず返却して“ ソラリス ”借り出してみた( 昔,新しくその完全翻訳版の出た頃か,私の日記でも紹介しかけたものの一度も読まなかった。 “2004年”と書かれてあるから,20年ぶりだ。 あの当時,“難解な理論的な”という評判みたいだったのでわたしは手をつけにくかったのだろう。)
今週ようやく読みかけてみたら,案外単純そうでいっぺんに読んでいける。-最初だけ? 通路の描写が多い,船内通路の部分だけを1ページずつ例の“ -技法 ”ファイルにまとめてみたくなった。
[ 以前,ある“明晰夢”の場に,なにか室の玄関-靴箱に視たところ,上靴の一足に女の子の名か,ひらがなで書かれてあったかのようにみえた。そんな場面が遇ったのが連想された。]
ただ,主人公ケルヴィンや調査クルーたちとの“ 感情 ”は突飛すぎて,一々手直ししたくなるような不可解な表現も多い,そういう意味での注意的編集版があったら..という理想の問題だ。
映画版はどちらも似ていなくて,原作者は( ソラリスの海が能動的なものとして描かれていなかったからか, )不満だったそうだ。
その日本語翻訳文には“-の ”での連結が多すぎる,私は一々“の”を最小限必要の掛かりだけ残して省きながら読む自己習慣であり( 実際,“の”は最小限必要点であるべきだ。そのように直してみると意味合い自体の直接性が確かになり,更に“の”の正体-と言いたくなる.. )
ズッキーニかなにかをカットしていたとき指の傷をみて“繰り返し”に気づいたといったあの場面に,私は一度“明晰夢的な”言い回しみたいだ-と面白く評したことがあった( “怪我”そのものがソラリスの海だったという見方でもよかった。)
一個人の視点的にみたメタファーの物語だといった場合には,“外部機能”は存在しえない( 映画“ インセプション ”では,“夢”に現れる亡妻は記憶上との自己イメージに過ぎなかった。“亡霊”に可塑性や変形性がみられるとしたら,それらは反映している。)仮に,懐胎されたものが投射元に対して逆に侵襲するかのような現象をもったとしたら,意図的占有の無い側には危うい状況である。
却って,もし海に潮汐をもたらしているものが無くなったとしたら,どうなるのか?
..“ 好き嫌い ”は自己バイアスなのだから評価に値しない(-と,私は言った。)
“ 人間的な他者 ”といったウソには一切乗るべきではない。
他の名前で語ることは一自身の像に過ぎない。
( 繰り返し眺めてみても,ぜんぶ自画像. )
この点は今いちど徹底しなければいけない。
2024-11-17: ねむけ
..( 寝ぎわに“受け身”になるのがいやで )私は体に軟柔にならない気をつけ方をしていよう-と辛うじて注意していた。
私の先行できるような意との機会や観念化の要求は無くなっていた。
わたしが最後“ おすしパック ”を買って食べたのがいつだったのか想いだせない, --そう言えば“ こんにゃくネタでの握り寿し(を夢みる)”について昨年末だったか書いてみたのを憶いだすのだが, もう“ お寿しの夢 ”というようなあの持ち方は無くなった。
今年野草野菜からの食べ方に切り換えて以来,錯誤試行もあったけれど,体の具合としては悪くない。( 先週一度,おもいつきかのように卵一個と米飯とで何ヵ月ぶりか炒飯ふうにやってみたが,思案の無い素早いタイミングだったからか,おいしかった。)
ただ,このときみたいに私は“ これは夢だ ”とは言わなかった,
私はすべて夢みている( 私のみているすべて夢.. )という自覚も無く。
:2024-12-26
..私は頭の額を“冷やし過ぎた”のだと気が着いた。両手指に自熱を持たなくなっていると同様( 乾燥-相次ぐひび割れ? )表面的な労りでは戻らない。例に( 私は心理的原因さえ辿ろうと思ったのだが,あるいは- )“耳”の衰えにくさ,“感覚器官”の..
2024-11-20:
この体は夢である,言ってみた。-もっと“純心”だったときのように?
“ A.I.”という映画タイトルが想いだされたのは,私が今月“ ソラリス ”原作を読んでいるからかもしれなかった( 論理的な通常の連想としては“ スフィア ”の方だった。“ ソラリスの海 ”の機能的な部分が“ 金色の球体 ”に置き換えられた二番三番煎じストーリーだとも思われたからだ(..一度 “海底基地”SFサスペンスもの映画が続いた頃に示摘された筈だった.)
-私がこう述べた瞬間に,おはなし側は“ それは1935年の太陽を言っている ”と言った。..そう言えば,サミュエルLジャクソンだったか,海底窓辺でヴェルヌの本かなにか読んでいるといったシーンはあった。仮に私個人の歴史観だとして19-35までのもののことだったのなら,赤い太陽の放射光も今の私にはピンとはこない。)
理論的な問題としてではなく実践のためでなければ無意味である。
20代ころには私は身体に観察的だったとおもう。..語順の問題はあったかもしれなかったが,身体や自体は‘ 夢とのみるにおける現象 ’である。
2024-11-22:
問題不要,意味無用。
2024-11-23:
..“ ソラリス ”-ようやく3/4読めた。“ 仙丹 ”に関する何冊かと同時に読み進めようと思っていたのだが,天候おもわしくなく( 快晴日少なかった )スベリヒユの成育も採取もほぼ数える程に季節外となっていた(
J-Stageファイルのひとつにスベリヒユ発芽条件等について書かれたデータがあった。一日平均20度C必要で,13度C以下では発芽しないという。スミレやタンポポの葉などは今月まだ水分保持できた柔らかいものも見あたるが,きちんと調理しないと苦みにやられて眼が弱るかも-?
)私は通年観察の経験が無かったので,それらの枯れたり休眠したりの時期に思い当たらない。明日ここの体力がアップするのかダウンするのか読めないのと同じことだ。
..再びソラリスに読みかけて,私は普段のように文章や台詞を擬似音声読み的にしなくても文面を把握できると気がついた。以前何度か日記にも書いたように,私は一定の音声読み的な癖を持っていた(
それゆえに“おはなし要素”として思考を言語化する,執筆的方向となっていたわけだ-と。)つまり,速読的な把握は私には不可能であった。六面体パズルのようなものにさえ,私は文言的な“辿り方”をしていたのだろう。 “外部のAIに頼るのではなく,先ず内的AIを”というべきだった,これぐらい観念的思考の反芻に慣れていたから,直通しなかったのか(
それこそ私が一度も“あの少年たち”に理解できなかった原因かもしれなかった。)
本ページに眺める必然も無いというのは,空腹を知らない態みたいだ。
2024-11-28: ある目に映らなかった姿
すべてわたしの夢と(あらためて)言ったとき,その直前,ある記憶された業務用スーパーマーケット店内の印象遇った。午後,私は“ ハープシコードとヴァイオリンのソナタ(モーツァルト,KV7,KV9など)”ききながら,途中読みから再び借りてきた“ からだの錯覚 ”読みかけつつ,その錯覚方法の説明に移入できず眠気に落ちていた。
[ “ からだの錯覚 ”が自己投射について述べた部分等,29日付で足してみた( 夢見の実践f: 参考図書7および読用採枠1;)ちょうど“ ソラリス ”から夢だの場面と読めるところができたので,適用メモと思い切って一日のうちに打ち込んでおいた。
“ 仙丹 ”の話題もからめて書けたらよかったのだが,読みかけでまた貸出期限になったりする“ LIFESPAN( D.A.シンクレア,M.D.ラプラント,2020/2019, )”など( 私が今月あらためてTシャツ一枚上着で自転車していたのは,その第4章を読んだからだ。)同時数冊あったので,楽しみにしていた“ 胎息 ”についての本も,少しも読み進めなかった。]
-
私は今だにも特定の人影にみえる自身の像から解放されないかのようだった。“そのひと”であるとき,すでに投影されている,最初に何よりも-見えていたとしたら..( “受ける側”といったが間違いであったが如く,“訴える背中”というものはどこにも有り得ない。)
しかし- 知らなかったからだ。
“父”といった心象-? 10,10-2012 / イメージノート
“姿の無い父” 夢記録引用と付録 :2018-05-27 / 羊毛とネジ
投影した自己像について: そこでなにをしている( 2024-08-16 )/ 夢見の理論
2024-12-12: 身体の拡大と可動性
[ 今週,f:のファイルに読書記録を足してみた- ]“ からだの錯覚 ”には,身体部分の伸長するようなイメージ視覚と錯覚誘導に拠って(そのあいだ)ある痛み症状等の軽減したという例が,簡単に述べられてあった( 手変形錯覚による患部痛みの増減. )
その著者,小鷹氏が紹介したスライムハンド錯覚( 体験者の手と軟体のスライムとが机上におかれ,実験者によってその体験者の皮膚とスライムは同時に引っ張り上げられる。その両方間は予め鏡で隔たれており,体験者は自身の手よりもその鏡に映じたスライムの伸びをみて,“感覚的な”錯覚を覚える-という。)その錯覚度合かなり有意なもののようだ。
..それらに読んで私は,身体の拡大と可動性について思った。 真に成長しつつある体が収縮的な痛みとともに伸長したり拡張したりするわけではない( 成長の身体は青年や中年よりも伸びやかな,可能性だけのものだろうし,逆に心理的な“阻害”などに依って理想からは掛け離れた自身への問題ともなる., )
..仙道にも,“気”の身体または空間というものが通常身体の限界を超えて無限に広がる-といった,宇宙通電的ともいえるような言い回しが残されている..
その“ からだの錯覚 ”が,後の章で“ 幽体離脱 ”という語を用いていたが,(私には)意図不明だった。その著の文章自体,全体にメトニミーの多用によるのか,“思い込み”で書かれた,根拠の弱いものだという心象も喚起する,( 残念ながら。)
2024-11-30:
内的参照しない。
2024-12-11:
これらすべて夢である
[ 以前の日記記録-概要等に; これは夢である,シミュレーション,試行といったワードで辿ってみたところ,関連カテゴリーとして;
自己+,身体,原理,試行という傾向が表れた。]