発生点

2024-07-15: 色彩は動物利用する-
私は野草の図鑑に視ていて(“うーん? これはおいしそう..”と言った時には)決して手に取ってはいけない。 ある年齢以上は二度と“艶”のものにさわらないだろうが,私は先日“おかしなつや”をどう云ったのか問題のようだ。

私は“あらゆるベクトルを利用しない”と(本気で,口に出さずに)言ってみた。すると“おはなし”は鎮まり不意にしんとなった。 単なる連想に過ぎなかったのだろうか( 性-利用の?)
未来からの影響自身に注意しているべきだ。
未来の私自身に拠って。

..夕方までに“道-草”行き順-測っているあいだに,日は暮れる. 本能的な行き方では“間違え”無いが,ある必然よりも習慣的なパフォームや“ひとのめ”が優先したりするなら,やめて籠れるだけの方がいい( -自身の手間賃を支払っている. )
夜道で近眼視力の落ちてきているのと実感されたとしたら( 適当な草を見分けられない, )あの晩のように,いつのまにかケガに上っているかもしれない。

2024-07-16:
..朝方,しだれの音と数時間予定に(ある“道-草”通常夢のあと)起きて,残尿もれと“ 前方-意との欠如 ”について思った。
単に“肉体の衰え”に帰してしまった年齢的な問題なのだが.,これが弱まっているとしたら,むしろ“ 可能性の欠如=喪失感 ”自身ではないか?
私は生活環境自体に可能性を見い出せなくなっていた。
若さに今後の可能性-可動性が持てるとしたら,これこそ肉体自体にも夢見にもニューをもたらす( 記憶力の働きも,これからの可能性よるのであろう。)

..もう確信が無くなって何年もしんだかのようだ。
私は‘ こちらからの視点 ’よりも反転してみた。あの放射状線上の図として言うなら( 他者的なキャラクターではなく今度の私自身として )中心視点という設定よりも反転的に(夢が)みている-という。
但し,外的音声の現象化にはしない( もし-他に与えたりしたら,今度は未だ“勝手な活動”に変わってしまう. )

2024-07-17:
私はあらゆるの非難をやめた。
とうに云うまでも無く,私のそれらを問うことは時間的に遅れている。
-代理業?

..もう,20年間か私の体に“バリトンヴォイス”発声しなくなっていた。 あれは単独海外旅行からの2001年後半以降,ベース主体というべきレヴェルでの発声だった。
拍手や発声が思考レヴェルに遅れているとしたら,“ある演奏”のように二重の遅れになってしまう。 たとえば,路上“かれら”が私の子ども時代に倣ったかいつも古いものばかり追っているように聞こえたのも(もしかれら自身“ フロイト心理学 ”でも収めるつもりでなかったのなら)まったく無為であった。
[ 私は“かれら”は少なくとも私には30年遅れていると思った。
ある衝動的な自動のベクトルに(それとは思わないままに)自身の理由づけとして手前の語や特定の出来事-知人の名で宛てたりすることだとしたら,ここからその元因なんだったか-とは顧みられなく.,(何度でも)記憶ものとの自動的な参照ばかり繰り返される.. 単に過去の表情的には忘れられたシチュエーションか?それともな感情的パターンだ?と-みなされてしまう。
無論,対象とはすべて自身のメタファーに過ぎなかったわけだし,単にそれらは“新しい,最近の”ことや話題であるかのように宛てられているには違いない. ]

..本能とヒステリーのあらわれにとって,それ自体の事故率といったような言い方は在り得ない( “夢”自体なにも裏-自身ではない。)仮にも-性的な形として同一化されればそれ自体は否定しなかっただろう, わたしが持てないとしたら逆向きになる.
-だから,そのような場面ではこちらに認知が先んじていないと“致命的”な扱いだった( どの時点に?という質しは必然であった。)

2024-07-22:
..おはなしでは,“街路のかれら(あの笑い声や嫌がらせ口の者たち)”のたぐいは,およそ60年分の間違いだという。もし-と私の側がそれらに引っ掛けられた理由が仮にニセモノ自体の誘導であったとしたら,私-自身しななければいけなかった( -これは従来の見方を踏査している。)
私が“かれら”にとっての明晰夢見の実践者でなければいけなかった-という全体的なコンセンサスの問題であった. 
“私が”いずこか60年分の他者に問い詰めてラッキーエンドとして終る-という楽観的な-花道が用意されていたとしても,そこでは何も解消したとは言い切れなかったであろう。
[ 昨夕,早めの時間に私は図書等のために普段通り名城-市役所付近の交差点を通った。なにか試合からの帰りなのか若い人たちが歩きかかっていた-が,そこにも例の忍び笑い男子が遇った( あの“ヤマゴボウ”に似た植物はその辺に点々と,病院周りの傾斜沿いに先週まだツユクサの青花などと同じ箇所に遇った。
今週読みかけの本に“ 毒草を食べてみた ”というタイトル,簡単な文庫本なのだが,ある意味なつかしい部分もある。私が一読しかけて思ったのは先ず“どんな食物も微量か多量かの違いで,いずれ毒になる”といった点であった。例えば,私にとっては生キャベツ盛りウスターソースがけなんていうメニューは如何にもアブない。あの“自虐笑いの子”にもそういった問題は後々浮上しただろう。)そのお金や余裕あったのだろうが,私はこの一ヵ月のあいだに救荒植物の見分け方を粗方自習しなければいけなくなったわけで,私自身の不足分を彼らに帰着しすことは永久にできない( 一ヵ月の知識を60年あとのものにしなければならない。)]
私は読者には今後もっと未来自生的の話題を提供できたらいいと思っている。