反応-自身を条件点ける

2023-09-25: 反応-自身を条件点ける
私は何にも同一しないことは夢見明晰化への先決だと思った。
感情? 心象? 私の思い!( それは何だ.. )しかし,“何か”と意味を求める必要性が,何か自身の必要性として現れるとは限らない。
“意味”を知ろうとすることは,それ自身の問題だった。..ある的を狙ったら,それ以外のものは無い-- 明晰夢見者のよく言った独り論理だ。たとえ逆接的な“探索”であっても,関わりではない-と(-ひとびとと関わりを持たないという態度は,“私自身”として観るところの反映となった。)
たぶん無関心が本当の,正しい在り方で(,順序は違ったかも,)たとえば通りにいちいち引っ掛かった“私”の問題だったとしたら,ここ“ひとつ”として現在できなかったのではないか?
以前日記コンテンツで,最初に“室内インテリア―の問題”と書いてから,既に17年は経過した。私はその“部屋”自身を片付けることはできなかった。同一性が当然だったからこそ,それらは不可分な,自己観念的な,夢とのフィードバックに過ぎなかった。
それらを対象自体に“もの”としてできる-といういい方が,完全に単一的であったなら(最早わかいとは言わないが,)何も悩むような面倒も無かったのだろう。
おそらく普通の夢見者なら“アイドリング”自体について“これは(だれかの,なにかの)夢だが..”というようには思わなかった。もしそれらとの間に“介在”を設定できるとしたら,天の訪問にも霊の仕業にも変わりうる。
..“月の遺跡(と謎の空洞説)”もいた。昔の有名心理学者と夢魔に関する話題で必ず引用された,ある“月に吸血鬼がいる”といった婦女のお話も,おそらく逆接的な文脈だったのだろう。コリンウィルソン原作の映画はあの当時SFホラーのように言ったが,イングランド一局での“吸血鬼”伝説ベースみたいだった。
あらわれた“夢”自体は何らかの観念運動だ。これのことについて(私は)こうして何度も記そうとした。“月”は占有されてはいなかったから,一時“夢”の行き着くところだ。私のこれだ!と言ったら(通常-)これが私を占有している?--疑問にはならない。無論,そんな疑問も無駄だ。
以前-自己像は簡便に変わるものだから“あの形”自体に依るのはナンセンスだ-とは言ったが..

( 続く )

2023-09-27: 自身の偶像対象に捉われた時間に,
この,“自身”との反応に条件点けてみるという脈,
これの視点-元に( 但し,ここでは“収集”という語ではない, )
‘収理’する。
情報はすべてここに在るものからだ-という理。
そのまえ“受け”の状態よりも,
(先ず)“私の”もの思いに一々意味を置かない。

2023-09-28:
昨夕-夜に出かけたとき,途端これは夢ではないと,再びあの逆説的意としたように,私-自身に言いかけた。( 早も“これは夢である”では )なにもできなかったかのようだ。

朝,例の“睡眠障害等”に関する神経科医の本( 返却期限,またメモする予定だったが,章2つ分に読み切れなかった, )
その最後の章に読みかけながらその私の頭を半ば上げたような体勢で両眼だけを閉じた。すぐにうとうとしたのか,(不意に)普通の町内道路みたいな所を行きかけて右に3つめの路に入った( 路面標示も何も無い,細い道路。憶えに無かった )そこでその先へと行こうとしているという自覚が起きたのか,その一瞬までだった。

2023-09-29:
朝,“ガンは予防できる”の途中から再び読みだした。そしてまた眠気とのあいだに,“お店3つあり,その3店目に見ようとしたか言いかけたところで- ”不図だった。
あたかも昨朝あの“3つめの路へ”パターンで,“お店( 今回それら自体はイメージにならない一瞬の夢のような,なにも判らなかったが.. )”という,対象の変わっただけみたいな。
私は昨日のあの記録に読み直してみた。“-私は(読書の合間に)両眼を閉じた”と,私自身の休憩しようと目蓋を閉じたと書いてあった。今朝の場合には,私は予め本を手指に閉じて休憩しようとしたのではなく,読書とに疲れて(自覚の無い状態-)それだった。
その違いこそが,それら自動的な印象との(意識や,像の)鮮明-不明に比例したかのようだ。
無論,私の意識性が即に自動的な表れとの度合いに比例する-という見方は,昔よく明晰夢が“光”との直接的表れのように語られたことと同じように,メタファーだ。私は“意識と発光”という最も利用され易いたとえ自体にではなく( むしろ“暗がり”に条件点けてみたら.. )あの現象本位の面白味は,なくなった。

ある夜道( 2023-08-05 夜景 )