2025-02-14: 機能性の合成について:
( 夢:)
こちらの手にぶら下げられた細長いベルトのようなものが遇った。
それは一見なにかの皮膚みたいな半ば柔軟材質のようだった。-が,その末端へとそれの形状自体に次第人工的な連続的“鎖”状となっていた( -あたかも,自転車駆動用チェーンの大きめな部品等-繋がり骨格だったかのように )
それは乳房のようなものに向かって触れようとしていたーーが,( 私は最早なんの刺激も受けず, )興奮も起こらなかった。
[ ..この( あとの時点で,記録のために,再び )想起されたイメージの部分等は,これら自体の更に自動的付加されたり,自動的な趣向によって変化させられたかもしれない。 それらの性質等は( あたかもひとつの部品であったかのように )“象徴”されていたのだが,どれが-どの時点で-どのように(描き足されていたのか?)という問題は,常にある。
このような“夢”じみた,性的趣向へと“合成”されていく自動的なイメージの形ばかりでなく,普通に陥る“ものおもい”のたぐいにも常にそのような性質変化-逐次認識との付加となる-という(この質問の)意味だ。]
2025-02-15: 夢見本質的関係
手前ファイリングのために他者の文章を引用したりしてみる度に,通常日本語文って本当に他者を区別しないんだな-と,“自分”といった語に考えさせられた。 すべては“ 自分(自身)”なのだ-( 私自身の注記に,“ これはすべて夢 ”と記したが, )それは夢だろうか?
詰まり,外的存在を認知するということ-それ自体と,外的存在性としての自身を“みる”というのとでは,どう違う。
( 昨日この日記頁の更新機会に自らカテゴリー伝って読み直してみたら,私は身体的メタファーと言った方にこそ夢見的本質との“身体的”一致感だったと気がついた.. )
“ メタファー生物 ”というカテゴリー名には私自身おかしみであったものの,あらためて少し読んでみたら,ここでの適用も間違いではない-
( それに対する私-自身といっても,それ自体への持つような-前提ではなかったが.. )直観的には憶い出せるし,これこそが夢見本質的関係かもわからない。
私はいつものように端末前に座って画面に向かっているつもりだった-
が,久しく無かったものかのように,その身体性自身に甦っていた。
私はこれを“眠り”とは想わなかった( 一瞬の再現であったとしても..
これも“合成”-? )
2025-03-07: 翻訳されざる“夢”
お土産か食品等の置かれたような店舗の中だった。ある一角に,揚げたての大きな鮭まるごと身のような色合いの物がちょうど油から引き揚げられたばかりみたいなパチパチ爆ぜている状態であった。わたしは“おいしそうだな”と声に出して言った( そこには“300円”という値札があった。)“300円なら買えなくはないな( でも手持ち200円しか無かったんだっけ?
)”と思いながら,そこにきた従業員らしい男性に尋ねてみた処,何言ってんのとでもいうような口調で“ 5000円だよ,5000円! ”と言った。[ もっとそちらに商品があるとでも言われたからか,なんでだったか ]わたしはその従業員とともにその奥の部屋へと入っていった。塗りたての壁みたいな様子の(
次の室は少々暗かった。床一面は,木材か何かで均等に仕切られた長方枡形か格子ごとの間に,その壁土みたいな材質の物が不均等に盛られたような )そのやや隅には別の男ひとりが休んで何か食べていたのか,無言だった。こちらに近いその盛り土のひとつに,お菓子の袋やその個別包装の四角い透明袋などが放られたままかのように遇った。わたしは口先に発したかのごとく“ 明晰夢見の実践と理論を-
”と言いかけた-,すぐ隣であの従業員のような男がすかさず“ おけらー? ”と訊き返した。
- 少なくとも“ わたし ”という意識は(あの旨そうな“揚げ鮭”をみたことによって,)手前への対象的発生したのではなかったか? 私としてそのような物を視認しようとしたタイミングで一々“ 夢見 ”条件点けた覚えもあるのだが,実際にはそれら自体への関心と私-自身という対称とがこの条件点けに於いて関連していなかったのだろう。(
“300円で鮭を買おうとする”というのは,普段ジュースなどについての習慣であって(-“200円”ちょっとまでで,)ある状況的な場面で合成されたのだろう。)
“ 明晰夢見の実践と理論のために ”というタイトリングは,テーマ自体として決して外してはいないのだが,看板としてみれば,いわば普及的な苦肉の策だったという見方になる。 一方,“ おけらー ”とは,2001年初め前後から“ おけらま
”としてわたしの記録に点けていたアルバイト場での個人生活と旅行記など-そのあと.,2002年に改題してわたしの時事(じじ)問題的な関心などを少しずつ書き足していたもの。
“ 壁土 ”といったのは,明らかに父親の元の職業をいっている。その室内隅の方にいた男は似ていなかったが,“寝そべって何か食べているデブ”といった心象的な像となる。あたかも父親が何もかもやめてしまったかのように(体の不調といいながら)お菓子の袋を放るだけになってしまった-というイメージだ(..そこには私の問題が無かった。)
あの男の“言い返し”方,一時期,外的な路上での反対調や一見私に向かっての難癖口調に似てはいる。“反岸”むきな言葉を掛けられる- それとも“砲丸びいき”といったかのような,間違った風評か逆接的心象であったとしても,それらが反対しようとする(
または“私”に対して反対側でなければ無意味だというような-動機に基づいているとしたら,“夢”の側には予め“これは夢です”と整然として語るだけの論理性は無かったか,欠如していた。)
予見されなかった理由
( なぜ,外的に投影された側が“私”に際して一見陰険な“悪夢”の振りを誘導したのか?というのがここでの従来の質問であった。)
“彼ら”がコンピューターの側でなく私に対する嫌がらせ口にそんなにも簡単に乗ってしまったのだとしたら,もし私が人類全体を科学的に更生させたいと大真面目に訴えたとしたら,それこそ“ マトリックス ”世界での相たたかいながらの反乱といったような,あれこそ,ある売り場での狭小な“言い返し言葉”ばかりに終始してしまう-?
[ その“文脈”としては,私の以前“ 書き文字と現象のたとえ(:2023-12-12 / 駄無 )”に,今週書き足したあとの-
また“自分ら”といって受ける振りをするような子たちはおかあさんらの遊びとでも言ったかのように,全く無駄だった。
すべては現象だった,“生まれたばかりの赤ん坊がただ鳴くように( ある宇宙の初まりは-あたかも終り以前からであったように )” 喜怒哀楽も思いつきも形而上も,ただ観察できるだけでいいんじゃないか。 なにも“自分の”という必要もなかったのだから。
-といったような,たとえ-ぶれの一文に変わる..
しかし,いまでは私は“人間世界の関心”を持たない( あれ以来,一度も“ おけらー ”を持ったことは無い。あれらは純粋な人類の話題であって,後々“ 不戦平和 ”ファイル等に生きていた( 例えばナショジオのドキュメンタリー番組に喜ぶようなひとたちなら簡単に理解しただろうように )通底していたら-と. )
たとえば“ 関東大震災と朝鮮人虐殺 ”に関して,このまえ東京都知事や名古屋市長が否定的な断り言葉をしたことに際して,メディア側が更にどのレヴェルでそう言ったのか?と質問すべきだったのではなかったか- わたしにとって“ おけらー ”当時の論調とは前々そのようなものであった。-だから,( 当時の話題として
)ある過激派がその地元の少年らに象狩りをさせて牙などを資金源にしていたというような(わたしの)訴えの側に対して,イーオンS校の関係者が逆に過激派呼ばわりをしたのなら,いかにも逆切れの嫌がらせ当者だったのでは?という会社宛て質問状は必要であった。“ おけらー
”はそれ以前の時期からだったが,私が既にソーシャライズの意味を持って語ったのだから,むしろ過激派なんかよりも“(一個人の)社会的的独裁”と評したべきだ。]
今回この夢のまえ“わたしは”すべて再度(自身に)受けようとした。私の態度は過去何年も自己排多的になっていたので,“夢”に変わるような対象的のみとめ方はほぼ無くなっていたのだろう。
( 以前 感覚される“私”:2023-10-03 -
感覚された“私”で述べた,“私”を中心として全周からの矢印または放射状といった構図およびその反転に於いて,こんど(あのイメージ本位な排外によるのではなく)この無に等しい中心に集中している。 これを覚醒という。)