遇然

“不気味な”豫見?

2024-09-22:
そう言えば,先週,夢の場面に,久しく無かった“ ひとり居り残される ”という状況が遇った。
ひとつの教室のような所にいた。その生徒たちのような者たちはただそこにいたが(,そのひとりがなにか言いかけたか聞いたかして)出ていった。それは普通の日本語で“次の場所”について指示したのだろうが,わたしは彼がなんと言ったのか聞き取れなかった
[ ..わたしの児童であった頃にはそんなことは毎朝のように遇ったのだとおもう( なんでかわからない。作業的なにひとりだけ遅れてしまうことが度々あった。ある種のシュールレアリズム作品みたいな印象だ。)それが今更のように蘇ったのだろうか。 あるいは,私の一生“集団行動”には加味しなかった-関係あるだろうか? ]

2024-09-19:
“やる気”の有る無しは( 未来のことであって, )いま意識的に強制できるかできないか-の差は無関係だ。

2024-09-20:
一昨夕,私は県図書館で“ SW1ファントムメナス ”と“ ルーツ ”とを交換した( 予定通り,そのまえに“ リトルロマンス ”を先に返却すると思っていた-が,あのギター(リュート曲)の弦-伴奏がなにか“不気味”だったのと,未だ,あるような残し方だった。) ..そのあと,夜8時迄のT図書館とはすでに間に合わない.あるスーパーマーケットへと向かっていた私は大通りより町内側道を市内-西から東へと横断するあいだに北-南の大通り公園帯をよぎりかけた。そのとき偶々その横断中道路の視界左側に数年まえ造られた新しい商業施設のひとつがみえた。小さな平たい箱のような外観,ふと私は見憶え遇った。その日の早い時間だったか夜のうちに,私の寝ないでみた“光景”みたいな印象いくつかのひとつは,その建物外見そっくりだった( その“光景”は昼間のようなあかるさで,夜景ではなかった。それとは正面向き角度だった。)私は偶然その通り路を選んだのであって,予定ルートではなかった。私はその箇所にそのような建物等の造られたとは憶い出せなかった。
今回これも“自己予知”イメージであったのなら,実際の視覚的光景記憶からではなく,なにか合成的なものだったのであろう。

[ そのとき私はその箇所について以前の何も想い返さなかった。 昔わたしの記録に書いたことはあった,20前後わたしはその辺で並木道の間ベンチに休んでは無力に“ ぼんやり ”としていた。ちょうどあの施設建物に変わった側かその付近に,“変な印象”みえたり( その北側,堀との行き止まり側から一度わたしはその街路樹並びにみかけたとき,なにかそこに“見えない,数階建てくらいの大きさ建物のような”- なにか,わからなかった。
当時わたしは知らなかったのだが,昔アメリカ側が処刑場として利用したような建物が一時期あったと,なんの記事だったか書かれてあった。)
【 この頁に書いてから夜のうちに,..“それが見えなかった”のではなく(そのあと)わたしはその姿形みなかった(知らなかった)からだ-と思いついた。】
わたしが最後にその樹木等の並木道に“ 休んだ ”のがいつだったのか,私は一度“ポルターガイスト”に関して借り出した図書をそこで開きみたから,2002年頃だろう。昔-私日記にも書いたように,いつだったか,そのベンチ等に休憩していたわたしは婦人ひとり犬連れで歩いてきたのをちらりとみた-が,一瞬あと,その婦人だけでなにも連れてはいなかった-? 珍しくそんな幻覚のようなものも遇った( -あの場所から東側にみたとしたら,ちょうどあの平たい小さな建物のできた地点か,その近い並びでは? )
私の思い入れではないが,遇々記してみた。
..前回“ リトルロマンス ”サウンドトラック板のことについて書いたように,(以前その映画像は)予め例の“ヴィヴァルディ”として私の念頭に有ったのではない。私は昨年偶々図書館で借りたセルシェルとカメラータ-ベルンによる演奏を聴いて初めてそのヴィヴァルディのリュート曲(RV93)-と憶えた。 あの映画のタイトル表示( あの少年が,あるヨーロッパ鉄道駅舎内をくぐりぬけていくひとりの場面- )あの出だし音楽に,私は一度“ バッハ音楽からのフュージョンアレンジメントみたいな ”という感想で書いた( -今回あらためてCDで聴いてみると,そのメインテーマもRV93-ラルゴ自体やヴィヴァルディ曲からの-という意味であった。あのブログ当時私は潜在的にもコード本位の綴りや変奏曲などには気づかなかったのだろう。)
この場合にもやはり私とその順序とは違っていたのである。]

参考カテゴリー: “ ぼんやり ”,合成

2024-09-25:
一昨夜以来,“ ぶどう-バナナ-洋梨-もも ”の合成イメージを持ってみようとした( 実際金銭的に不可能の状況。)しかし,これらの視覚的-味覚的(食感との)合成が可能であるとしたら,イメージング-能動的夢見へのリハビリテーションとなる。
上記の順序でなら比較的に合成され易いだろう-と思ってみたものの,寝際,それら物自体とのイメージングは案外むつかしかった。先からの逆順での想起は楽だが( 連想的には“ もも-バナナ-洋梨-ぶどう ”? )それ自体としての合成果物は未だ既成記憶に存在しないゆえに,実物的手順必要とするのだろう..
先日“ ある(料理名)メニュー感 ”にとらわれたような食べ方つくり方の障害について書いたように,子どもに差し出された既製の看板ばかりが有効で,オリジナル生成に存在しない状態は不本意だという焦点はこれらにも問う。

..未だにも無く“外の時間”のために動かされていた。
“今日は水曜日だから水曜日の生活-”というのは永久に間違っている。私の気を他から奪ったりするあれは無い。
これと“これ以外であること” 私の中でやめなければならなかった。以前からあれ程に“外的問題としての”とは何なのか-と述べようとしたにも,それ自体動機かのようであった。すなはちも,“ 明晰夢見の実践 ”とは純心に存在しなかった。
【 私が“ 先生 ”と呼ばれていたのは街通りの頃で,あとにはむしろ時代反転されていた。街通りの子たちがトレースしたのは子ども時代ばかりで,実際なにも無かった。このまえ頁を割いて何年間か記したように,問うてもなんの価値にもならない( 私は一度も“自分ら”とは呼ばなかったし,かれらにも私にも全くには無意味な労費だったであろう。)
-だが,この“私的ブログ”自体に既にそうであった。-依存的な反転症とでも言うべき。以前私は夢記録のまとまった成果としてアップできるときまで更新を控えていたからだ。仮に私のこのような記録類すべてが無駄だったという意味でなら( 私自身に難癖が付くとしたら, )今更にお祖末だ。】

2024-09-26:
( 単に観察に過ぎなかった )あらゆる心理反応を疑い,遠避けるべきだ。

..コーンカップにらせん状に盛られた白いソフトクリームがみえた。こちらの手に持って“食べよう”としたところ,それは赤っぽく縮れたケイトウ(鶏頭)の花そのもののように膨れ上がった。私は放り投げた.( それはあたかも路上にすてられた物のようにそこにあった。)
-
..再びその路上に落とされた物としてのイメージでみながら,今度それに対して枯れさせてみようと私は働きかけた.( それは灰色というより萎れた金属みたいな姿に変わり,その背景とも暗く, )一瞬私の意に反したかその中心から青っぽい光の発した。

2024-09-27: 考察; 自発動能夢見?
..動能的夢見というワードででは,“ 明晰夢見と覚醒のための実験( 明晰夢の方法(論:))”ページの方がこちらの日記よりも当たる。 久しぶりに読んでみるとダイレクトで上手い。なによりもエッセンスだけの収録からだ。私はこちら側に“ 動能 ”というカテゴリーを宛てたと思いこんでいたが,無かった( 取り敢えず以前からのワード意と連繋するためにここでの既製ワードを優先していたのだろう. )
通常の私にとっては‘ 自発的 ’の方が自然だ。 詰まり,動能的といった語の自体は夢見的という含意を持っていて( “見夢”の視点的な立場ではなく,先ず“夢自体”の部分がある. )心的にみるとこれはパラけてはいない。

試みに,自発動能夢見と書いてみる -これに拠り,先タイトル表示での右側反転部つづり( 自発夢-夢発自 )同様に,自発動能夢-夢能動発自となる。 この下線付き語の意としてみると,やはりも夢の主体性であり,私のではない( ‘私の夢’ではなく,“夢のわたし.”
“動能自発夢--夢発自能動”として見てみると,むしろ夢の主体性は強まっている。)

[ 単に“見る夢”といってみても,夢自体からの同一性に依っている-障害である点には変わりない( いま現在を完全に否定できる-としたら,逆接的に明晰夢とするは可能かもしれない。しかし,“夢の時間”にいるのかどうか( これは夢か否か? )本当に確認するためには,予め条件点けられたチェック表のようなものが必須であろう。)
-少なくとも,自発動能夢(見)夢能動発自としてみたら,視点的現在を示す。]

..“自発夢”と“夢発自” :2024-09-03, / 消私と月世界(前頁)

2024-10-01:
先週( 私の時々作業中に,二度-)あの“ 私の閉じた視界内によぎった白いもや ”みたいな動きに似た,薄い淡い影のようなものが私の実際ひらいて視ている視野のやや下側に(右から左へと,水平に)比較的ゆっくりと移動したようにみえた。 無論,不意の私はなんのことだろうか?と思った( その一度は図書館でインターネット席についていた最中だった。) -私は,もしそれが反応的な“動き”だったとしたら,おそらくその場での私のひとやものに対しての心的な危惧と関連したのでは?と思った。 私はそのような場所では全く集中し切れなかったし,もう何年も我と周りとを忘れる程の没入も滅多に無かった。
私は本当に漸くも“ひとり”きりに戻れるのでは-と思いだしたところである。
今日遇ったひとつの“反応”は,あの“ 視野に一瞬,青いドット ”であった。
..私は今朝ようやく自転車前輪のパンク穴を調べてゴムパッチで塞いだ。その作業中に最近聴かなかった古い歌が喚び起されたのだろう( その面倒臭い手作業との記憶で. ) その瞬間には私自身それとの見当が付いたのだが,午後,私の体を洗っていたあいだに,なんでかピーターセテラの“ ステイウィズミー ”(久しぶりに)再生された瞬間には,意図不明だった。 その直前,テレビで“ 弓道を学ぶ若い西洋人女性 ”の話が放映していた.,私はその場面を視ていて“ 投身(術)”という語を想い出した( 10才代の頃わたしはいっぺんエアーガンでの“射的”が上手いとおもっていた。-だが,私は“専用道具”には殆んど依存しなかったのだろう。)それで,弓矢の場面か武道のイメージから主題歌的に連想されたのかもわからないが,あの歌の“聖歌”みたいな部分は不思議だった。
..すると,(今度は)右目視野の右下にあの青紫がかった点が一瞬映った。( はて? 以前あの青紫の点は私の想像依拠した“彼女”との問題によっていたものだったのに? )-問題は,それが“ 彼女 ”という持ち方の心理的存在自体に因っていたのか,それとも私の心的反応とのものだったのか?であった。
あのドラマティックな歌が,私の持たなくなった情熱的といったような回路にとって訴えるなにかと遇ったものか?

参照カテゴリー: 色あい , 音楽(自動)
青い羽根:2020-12-30 / 明晰夢への転回
投射された視点(の分離):2021-01-29,