不思議

  2023-12-21:
“ 400年生きるサメ、4万年生きる植物 ”の借り出し期限は20日だった。その本自体は(先に読んだオースタッド氏の“長寿の動物たち”本と比べると,)更に学者のというよりはインターネットで集めたメタデータ等の概説といったもので,その分,私のような初心者には読み易さが遇った( 特に“群生植物”の章は,その抗-成分自体の強さという点での予想しうる処も遇って面白い。)その著者のあとがきに記されていた“ スポーツと寿命 ”というタイトルが(その図書館でのタイトル検索で書庫に1冊遇ったので,)次の読書予定してあった。..またコピー機がけの代金が無いな-と思っていた処.,そのタイトルの書かれてあった一節には,ちょうど“力士の短命”とも書き添えられていた。)
ただ,ニュースの偶然とは言っても,その疾患原因と一般的に示唆されたリスクとが(間の見えない,“相関”データと)一致したものだとは限らない。
私が食材に関して今週初めて“ LPS ”というワードを知ったように( またひとつ“答え”に近づいたのだろうか-? )むしろ本当の原因は未だ見えていない-と言うべきだのに。
[ “スポーツは本当に(長期的に,効果的に)健康を保証するのかどうか?”といった見方., 但し,掲載データは前世紀か以前のものなので,以後の人たちの生活環境とは直接比較にならないと思われる。当然“運動”の質量や当者にとっての心身の性格に因るだろうとは予測される。]

私は外的な強制的作業は矢張りも心身に難だと思った。[ 本の自発的動きで起こるなら,( 以前引用した心理学・精神分析系の幾つかで,あたかもヒステリー者は死なない(なんでか事故死できない)といったように, )無理の問題は無いのだろう。]人間は自分自身にウソをつくからだ。
“私の書き文字”が変だ-という例で示したことわざしさみたいに,(電車の中で“..あの,ここはどこですか?”と尋ねてしまう者のように-)無意識そうだった。

2023-12-22:
夜のあいだ,ある老人のように-着込もうともしないで毛布一枚で寝ようとしたが.,それよりも,意識的の保とうとしたばかり,朝にはまったく眠ったような感覚は無かった。また部屋の外に冷えた木材の鳴ったような物音が聞こえて,“外在化”について思い起こしかけた。それだからというわけでもなかったのだろう,なにか室内との隙間に男の子が(両腕にカラフルなブレスレットかバングルなどを付けた姿で立っていて)こちら向きに覗いているイメージや,2人がこちらに向かって(次第に)嫌がらせのような言葉をいいはじめる,“悪いキャラクター”夢だった。
私は大抵そのような者には“汲まない”か,私-自身には心覚え無い-といった。【 私にとってかれら態度のふしぎであることは,おそらくこの私に夢見の機会が在ることを意味したのだが(,これらが否定されるとしたら,“私の理屈”という問題ではなかった。)】
[ 無論,それが“知り合い”の顔だったとしても,ある綴り替わりや避難だったかもしれない-( 心理的な見方をするひとが,むしろ二重の問題を“外的障害”かのように見倣しては置いたり断ったりすることもある.. )仮に“この私”が如何に批評的-批判的だったとしても,“それら自体”との本意というような生き方は在り得なかった。]
( “あるものを負う(認否をする)わたし自身という”-夢と,見るとの要は,( “月での踊り”- 求められたに過ぎず, )時に自乗的だった。)

“ その調理、まだまだ- ”の,“カレイの煮付け”にメモしかけて,久しく無かった“ えんがわ ”という文字に(,そう言えば,その名称書きの漢字での記憶は無いな-と,)“沿側? いや,縁側? -皮?” 辞書を開いてみた。
毎日ヴィヴァルディ“ 四季 ”を繰り返し聴き直しているが( Sスタンデイジとピノック=イングリッシュコンサートの演奏録音は他の演奏よりも全体の音が少し低く設定されていた。殆んど弱の抑揚がないので,受けの無い張り方には単純に良いと思った。)
このまえ“ アマデウス ”が連想されたのは,“ 夏 ”の終わり部分- “ 彼のおそれ- ”だったに違いないのだが., )私は未だその何なのか把握してはいない( “ 犬 ”という語にもピンとは来なかった。)
ひらがなで書かれた“ えんがわ ”に思う,不思議といったとき,私は身体的なものが発しているように( すべては既知でなく再び未知自体なのであり, )この不思議といきているのである。

2023-12-24:
最後にすべてを放棄すると書いたのはいつだったか? ..ここにはただ明晰夢見のみ,もはや世事との問題は存在しない-と。
妄念に拘泥る理由も無くなったと思われた-が,依然下らないものに流れているかのように,“ これは夢だ ”とは言わなかった.,
すべて(欲求の問題と)変わっている。
一々のことに見入るかどうかは,予め(同一無しに)査証されていなければならない。欲求のためにやったり言ったりすることは,夢見の目的にとってニセモノ本意だ。しかし,“私”否定と同時に非難の矛先が放射状に向かうような状態の繰り返し,無為だ。
[ 既に“私自身”との障害を扱うかどうかの問いではなかった。..“これ自身”は再帰性のものかもしれなかった. ]
単に“ これは欲求の問題である ”と言い( ,でたらめにページやケーキの絵を眺めるばかり )なにも夢見の実践ではない。
[ 現に ]なにをみて-どう感じるか-といった感想自身,二重に唱えたとしても,今では夢自体の状態に観察する視点は起こらない。
( 墓と碑文には何も無く,朝陽に無数に照り返したのみ. )それらは同時に視たり話しかけたりさえするかもしれないが.,それは夢見ではなかった。

..ヴィヴァルディのあの“ 冬 ”第一楽章かかっていた。[ その音楽自体は殆んど完璧な(音の記憶に基づいていた。)-が,夢の表れとしては無関係な,室内の間- 床面の点々と付いた黄色っぽい染みのようなもの,
紳士服スーツ姿の男が何か言っていたが.,その室内には中央側に何本かの人工的な縦杭のような棒状のものが一定間隔に並列していた。それらがその根元-筒状の中から少しずつ上がってきて,音楽自体の盛り上がりとの連動したかのようだった( 但し,その夢ではヴィヴァルディの曲だという認識は無くて,“ スターウォーズ ”の迫力音楽かなにかだという違った認知だった. )
昨日,あるフルート演奏版“ 四季 ”を聴きながら,そのCDのノーツに読んでみたら,その作曲者の最期に関して書かれた一節が漸く表れて,..何のことだ!と思った。あの音楽のなにかが一個のものを象徴しているとは限らないが,私自身ここに記そうとしたように,みえなくなるのだ., ]

( 私の欲求本意ではなくなったとき- )適確に条件付けが無ければ,そのような駄夢に眠っているばかりになってしまう。実際には,外的事象のようにみなされることすべては否定されながら問題化する. それだからこそ,それら(の性格)は精査され,自身の状態やモードとして読み分けられるときに,今度は的確-条件として予め( 心理的問題の軽重 - 心理的軽重の問題を )超えていなければならない。

2023-12-27: 記憶損失?
昨夜,ひとつ奇妙なことが遇った。
私は市立図書館から借りた本を(配達人に頼らずに,その所蔵図書館に)自転車で直接行ったり戻したりしていた。例の“ その調理、まだまだ- ”は近隣の区にも置かれてあったが,私は港図書館で借りていた( ついでに,そのすぐ北側に熱田図書館が在ったので,ヴィヴァルディ曲の演奏録音なども借り出していた。
それらの貸し出し延長期限は26日だった。私は予定通り食材等に関するメモを付け終えたあと,その本などを携帯バッグに入れて自転車で出た( そのショルダーバッグは16年程まえに買ったものだが,あいだ10年間まったく使わなかった。最近またそのベルト部分を腰に結わえては背面バッグとして利用し始めた。50過ぎて今更ヒップバッグをぶら下げるのは体力的に難しいかもと思ったものの,実際使ってみると,20才代-30才代頃のあの身体的との印象が甦ったりする..
))
なんでか,“私は”またあの3号線下をまっすぐ行きながら( 港のポートビル方向までまっすぐ行く道に最短で向かうには,名古屋駅に近い大通りの南側を,広めの自転車歩道に依って日比野交差点での又分かれを右へと南下するだけだった筈, )またあの“呼続”まで来てしまった。..あのときの(初回の)間違いパターンとまったく同じだ。どうしたわけだろう-? その通りから先ず熱田神宮方向に行くなら,そこから引き返して西へとすぐだ。私は予定順番に行こうとして,その南側を西へと横断していった。その通り道の限定されている所では,自転車を両手で押して水辺の橋などに上がっては渡らなければならない。
既に暗くなっていた。私はその辺には未だ不慣れだったので,もし見憶えの南北道に差し掛かれなかったら,再び迷ってしまう。なるべく通行人には尋ねないで(ひとり頭の記憶で)行くのが当然だったので,的確に見当が着かなければいけない。ある場所からガーデン埠頭付近の観覧車-電飾等が目に映った( 向こうに離れている。)間に通行不可の水辺が遇って,少し引き返さなければいけなかった。
..そうしているうちに,以前の見憶えで,目的の方向へと近づいているようだった。間も無く閉館時刻,私はとうとう歩道上の何人かに“-こちらの方向ですか?”と尋ねた。漸く行き着いて私のバッグから図書を取り出して渡しかけた時,血が垂れ落ちた。私は仕方無く熱田図書館から借りていたCD等もそこで返却扱いにしてもらった( そのCD2枚のプラスティックケース端はいつのまにかひび割れていた.. 私は最近それらを愛知県図書館のグレービニールケースに入れていたから,私のバッグとで二重に守られていた筈なのに..? )
[ 今この瞬間私が上の一行を記していた室内で,偶々NHK-Gのドラマものにヴィヴァルディ“ 四季 ”の一節がかかった。普段私は視ていないので分からないが,草薙さんが何か台詞を言っていた。]
係員たちの数人は既に出ていくところだったようで,ひとりだけ私に“ 手洗いで.. ”と促して鏡の前に立たせた。顔の右側に幾つか血の跡のような( その時には判らなかったが,どれもなにかに擦れた痕だった。右上腕か肩の痛みにも,今これを書き始めた時の直前まで,意識されなかった。)
上唇の右側が裂けたのか,前歯の右一本も無くなっていた。
[ 外観的にはその傷は上唇自体の少し上側で,口ひげの生えている部分。特にその内側(の傷)歯の欠けた縁か周辺に擦れて痛む。翌日には上唇自体への腫れもひどくその片側に歪んでみえた。必然的な“上唇の部分が破れた”という感覚的な語になったのだろう。むしろ,右-上顎などの打ちつけられたあとのような痛み-といった意味を避けようとしたおそれも.. この顔-右側は眼の周りも腫れぼったく,このあと一週間以上その頬のあたりも黄色っぽく変わっていた。]
“ 歯がここから跳び出したのかな.. ”
歯は年齢とともに壊れかけるもので,私の場合,既にその前歯2つの間は割れて空いていたし,右犬歯の右隣(昔の治療あと,いつだったかクラウンも外れて以来一度もさわれないまま,去年なにか噛んだ際の衝撃で折れてしまった。指先でその取れそうな上部を回しながら引っ張ろうとしたあいだ,咬むときの当たりや痛みで面倒だった。)顔に掛かっていた二重掛けマスクが無いのと気が付いた。それは腰の左(前)ポケットに入っていた( その場でそれにも血が付いていたと憶うが,私の手でそのポケットに入れた憶えは無かった。普段の癖でなら右ポケットに入れたかもしれない,おそらく右側に痛みかなにかが遇ったのだろう。)
その残った係員ひとりは救急箱からテープなどを使って簡単にあてがってくれた。左手の中指と薬指の関節上にも傷が遇ったのに,そこにバンドエイドを貼ってもらった瞬間まで私は一度も気づかなかった( もう今日の午後,まだ出血している, )
右眼-横側の顔面に近い痛みから,どこかで転倒したのは間違い無い,(おそらく通行人たちに尋ねかけた時の,直前どこかだろう。)私は憶い出せないのをそのまま係員に言った。“ 救急の医院かどこかで診てもらった方がいいですよ。”と言われた-が,ちくちくの治療費で無くなってしまうんじゃないか,と思った。
自転車自体は前輪の泥除けがリベットから外れていただけで,本体には歪みも無さそうだった。もし“ 記憶の途切れ ”直後にその泥除けがカランカランと音をたてて外れかけていたのなら( -その場では, )あれっ?と思わなかったのだろうか? この点からも心理的な見方になる( -頭のどこかでは憶えている? )

こんなことは本当に初めてだと思う。睡眠時以外に私の記憶が途断たれたことは一度も無かった,これは例外だ。問題は,その不明な原因なのだが( あとでグーグルマップか実際の道路上にその途切れの間隔を見つけるのは可能かもしれない。)
私は普段ほかの自転車乗りの乱暴な急カーブや未視覚での動きなどには注意させようとこころみたし,昨夜もこれまで無い程に落ち着いていた( こちらや対向が急停止しなければならない状況こそ,予め十分に避けられるべきだ。)そう思っていただけに,このような?怪我が遇ったとは不可解だ。仮にだれかがその場にいたとしたら,私の記憶に残ったのかもしれない( むしろ,ありそうな状況としては,見えない路面の凹かなにかに突然落ちかけて慌てたといったところだろう。)
この推理的には,更にユニークな,“完全な自ミスを忘れようとした”という見方になるが..

(続き..)記憶と身体: 2023-12-30,