偶然と論理,解離,不一致

2023-07-24:理想的アプローチのために

肉体にも,なるべく自家薬籠中のものにするべきだ。
( 私といいながら自動的な-落ちている. )
私のこれだ(と)言い切れないとしたら.,それ-常に自動的という意味(に)変化している..
( しかし意識的であろうとすれば,それ-を掌握できない. )
私のものでないのに,私として云おうとする。
( 自己対立の原理. )
たとえばU国に陰ながら加担するということは,直接に参加するのと同じだった。オシント調査,ドローン操作,P-の発射ボタン.. 良心的-?
( ごはん代の為,“言い返し”よりも,環境的で。)
なんの記憶に因っているのか?という質問は( 明晰夢見の視点から )重要だった。
( 余計な記憶すべて無効化できるとしたら.. )
もし“私”ですら対称的の原因だといったのなら,私の存在性を消す以外に無い。私は..無くすべきだったか?
( むしろ,観念や思い入れの“独自性”に基づいていた方が,ずっと夢に近かった. )
それは“ハワイに何かある”といった日のように,依拠していた。それは“わたしの”だったのだから。
( それなのに,“港のコンテナ吊り上げクレーン操縦者をやってみたい”..? )
そんな夢の内容自体になりたかったとは。

2023-07-31:
感情も偶像も私には無意味なものになった。私は最早‘ 夢だ-と気づかせるもの ’以外には何も必要無いといった。
私は昨日朝から午後まで“ ある食品中の栄養価等とその働き ”に検索しつづけていた。6時間半程,一度も休憩も手洗いにも行かないで幾つかの項目をメモしてみたが,例えば“ ビタミンDは減塩よりも血圧を下げる ”のはどうしてか? あたかも結果的な統計値ばかりで,なにも原理的に説明できてはいないかのようだ。( 以前“生化学”の本を借りてわざわざ持ち帰って読んでみようとしたが,“アルコールと脂肪”に関して一般コラム的に読んだきりで,進めなかった。)
[ 私はこれを記しているあいだに,偶然テレビ画面でビタミン類サプリメント宣伝番組に“ -桶の理論 ”画像は遇った( 私が昨日メモしたワードのひとつは“ 必須アミノ酸の桶の理論 ”だった。)
私はプロテインスコアに関して読んだとき一見簡単に了解したものの.,棒グラフの最低数値を“ 部分的に板長さの足りない木桶 ”みたいに(ある成分表との必須バランス的に)物理的容器としてたとえた図には見覚えなかったからだ。]
そのあいだ一度も“明晰夢”の情報は調べなかった。その場の状況に“ ..ああ,これって,夢の- ”中途半端な呟きが精々だった。
ある“成分”の化学的な機序が未だに見えない-(それこそすべてが絵として見えれば良かった。これのように)私がどのように‘ 夢見 ’を再開できるのか。

2023-08-07:
[ ..(意識的-意図的でない)思いつきや発想については,先ずニセモノだと私は言った。それらは欲求されたものに過ぎない。それらに“私”と言えるか? -他との自動的なものならば無意味.,自発的思考だけが特質であり,動かされるものは動かされて眠りのような(自覚できない)“意義ある世界の酔っ払い”となる.. ]
私は右手側を動的に戻すことに拠って,解離したそれだったかどうかを確認するだろう。

時間を止める

( “私”自身に )自己批判的な傾向であったのは,明晰夢見という目的自体の問題だ。“私”は常に‘ これは夢だ ’と言わなければならない。それでくたびれてくる.
夢自体に‘ これは夢です ’という意味合いは無い。相手がいたら,一日中‘ これは夢だ ’と言ってくれ! と-頼んでみたら..
外的刺激に対して‘ いや,私は ’という主張があれば,条件反射的ではあったかも。
欲求本位で,余り観念的でもないから,と言ったのではないか。
-対称的なのは駄目だ。ある箱を開けてみるまえにそこから“ばあー!”と出てくるものが無ければ何も起こらない--それでは出来ない。
“ミー?”ではなかった。
‘ 私は-する ’と言えるひとなら可能性があるよ。でも“私”といったのはなんでか? ..昔“無人島にいたい”なんて書いたが,もし食料も休憩場所もあったなら,“私”と言う必然は在ったんだろうか?
“在った”のなら,希望的ではある。
-それもホンモノかどうか?

2023-08-09:
私は左半身を同一化したときには“彼女”と呼んでいた( カテゴリー名およびタイトル; )今回,右について意識的観察してみた際,不意に“マリー”の名が遇った。私は再び“精気”という観-念を持った。ある教えはそれを“bathe”と言ったのかもしれない( 水に浸すことは象徴的のひとつだろう。)
外部的なものは私を感化することはできなかった。私の右側は強制的な肉体作業を慣習化していたので,麻痺していなければならなかった-。意識的に身体側を“従わせよう”態度は難しかった。

2023-08-15: ほかのきぶん
(無自覚に)他の気分に動かされて“Z”いったり自任したりするのは危険だ。だれかの子どもはまただれかの子どもとなり,昔Gさんの言葉として言ったには,アラームを掛けるひとに先ずアラームを鳴らす役が必要で,そのアラーム役にも別のアラーム役が必要だった..( 年齢とともに,あのGの台詞集は何ら特別なものではなく,そのように意識的であろうとするひとの見方を一般に示したものだと判ったのだが.,
無論,本来一個で語られるべきことが他の問題であるかのように間違われる,逆にメディア上の占有には注意が必要だ[ -夢見の者にとっては。]気取りの無い処からなら,単純に“ファティズム”といった。)
だから,わたし自身を信認しないというのは比較的まともな態度だろう。