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駄無

2023-12-11: 外的依拠は全て駄無
[ 夜中のあいだ,朝方に一度,睡眠から覚めたのだろう。外的に依拠することは全て駄無という文句になった。単に“日常のわざ”というばかり,私の可能性で在りたければ一分でも他の都合によって変化するようなことは有り得なかった。
( “外的依拠は駄目をうむ”というとき- 私の日常すべてそれだった -という点。たとえば食事ひとつについても,予め何かの分量に設定された一皿やパックされた食品のまるごと食べ切らなければならない理由は無いわけで,無理な肉体運動のように強制されたとしても,心身の健康には合わないだろう。)
私は何度か言い直してそのフレーズお唱えしてみた。]

..ある屋内( やや古臭い白っぽいコンクリート造りの施設部分のような,色合いの無い寒々しい印象,半ば人がその辺にいるような雰囲気 -)不意に,左横から近づいてくる者があった。昔の同級生Tのようだった。それがこちらの手にあった物を渡してくれといった。こちらの手に持っていた,( ややピンクかオレンジがかった,直径3cm程の大きめ錠剤のような,円い3つか4つが一綴りのプラスティック型に封じられてあったが, )その端一個分は既に下面フォイル側から取り出されたあとかのように無かった。
( 彼だとしたらちょっと不躾な態度だな-と一瞬思ったものの, )わたしはその錠剤の綴りを手渡しながら,“ 外的に依拠することは全て駄無だ ” こちらの口先に言いかけた。あの文句そのままだった。

[ あとでは,その夢場面自体は他人事のようだが,“ 外的な依存の無為 ”だという自身の意とはメッセージとなったのだろう( -その真偽性に於いて? )
夢の状況やキャラクター自身( 顔形は記憶に基づいた同窓生のようだが,背丈も表情も違った。“大きな錠剤”も私には見慣れない物 )だから,夢のそれら- いくつかの,合成された,イメージのもの -(あるいは,おそらく)わたしだとしても - あのお唱えをした私とは乖離した状態だったと見るべきだ。
しかし,この今メモしている記述の文字自体に( 普段の書き“癖” )こうして意の持ち方に拠ってこれら字体も印象も変わるのと同じように,より完璧な夢見を意とすることは可能だ。]

そう言えば,今朝,ねむりから一度私の意識として戻りかけたあいだに,( あたかも以前“ 焦点合わせ ”と,この意識との注意-条件点けとしたときみたいに, )暗い中-両目は閉じていたのに急に一瞬その焦点の合わさったかのような,不思議な印象が起こった。
まるで意識自体の“ 焦点 ”が合ったかのように,不鮮明な状態から一瞬に復帰したといった感じだ。

2023-12-12:書き文字と現象のたとえ
昨日夢記録にも書きかけたように,私は手書きの文字面を取ろうとして綴りに意識的である程に“まずい”書き方になってしまった。
それの時“書く”の焦点はその綴り自体にあったので,文の内容とはそれ自体には無かった。ペンを指先-間に回してみても,鼻と上唇との間に挟んでみても,“内容”は変わらないか,書き移されない。少なくとも,コンテンツ表現としての正確さが先ず条件となっていなかったのなら.,書き文字の上手下手になんの問題がある-?
“私は字が下手だからここでは書けない.” ..バス運転手に行き先を尋ねられない.,そういった言い訳は表面的なものかもしれなかった。“私”の時間にとらわれない,本来的の見方が必要だった。
それだがも,意図的に文体自体を構成することと,意識的に文章として書字をするといった作業とは,一見関連しない。それだから,たとえば,ここの文脈で言えば,睡眠中の夢は( “私の次元”としてみては, )乖離している。

私は標準書体のように書こうと思ったときもあったが,マンガ字か“カワイイ文字”みたいに変わってしまう。ワープロ打ち込みからの文章経験という意味合いでもないが,今更に“スタイル”という観点からは関与できないだろうし,意図的にカワイイ書体をやろうとしたわけではない。この観点では,‘ 夢見 ’の原理との関係にも相応のものがある。あたかも普段の見慣れた室内か“記憶の”光景にイメージ自体として没入できるというやり方が,それ自体への希望や念としてその行為を支えることが可能なのだとしたら,(自動的な書き文字はナンセンスだといったように)“夢”自体に因って視られるという不自由-受けの問題ではない-とは言える。
しかし,同時に,例えば“身体の夢”は肉体の感覚に基づいている。これ自体の変化を敢えて催すのでなければ,( 従来には普通の肉体感覚を別のものに変えよう試みも無かった, )偶然それらは別の都合上のものに移り変わったかもしれない。
以前私の論じかけた如く,“外在の感覚”というものがありうるとしたら,それらは現象的にあらわれたに違いない。

2023-12-19: 空中に浮いた種(たね)
(昔)先人達は“ 私があるから私は思う ”と言ったそうだ。
“自覚夢”といったのも同じ原理で,夢見手が“ これは私の夢だ ”と探求してこその“ 夢 ”である。
[ 後年いろいろな障害のためにこれと否定されることも.. 腹が空いたから取り敢えずとも食べなければならない-という生理的な問題と同じで,一見癒着した(同一化されていた)欲求について,“すべて”と切り離して更に見なければいけないとしたら,既に“私の欲求”といった保持の目は正当化されない。]
-“私”という前提が在って“私の視点”は在る,“私の目的”が在ったから“私の成果”は在り得る。“すべては私のすべて”-と言うことは如何にも簡単そうであった( なんにでも“自-分”といい,簡単そうにさわれる. )種から咲いたものが,また実から落ちることもあるように-?

昨夜,私は“ その調理、( まだまだ )9割の栄養捨ててます! ”からのメモを重ね貼りしながら,暗記できなさは実践量の無さだ-と,思い?しっていた。このまえ,100円も持たずに深夜-朝方スーパーマーケットにコピー機のために行ってみたら,偶然その傍にちょうど値引き札の貼られた小さなオクラ1パックやミニキャベツ半分などがカゴに置かれてあったが,その場にも私は“健康食-情報メモ”を優先したのだった。“買えなかったあの緑野菜 ”-?(あの曲のように..)”
こうしてまたメモとの合間に,私は“顔面”を気に掛けなくなっていた。私は下線用に使っていた短いプラスティック定規を上唇と鼻との間に挟んでみた。しかし挙筋を上げるには,きっとその部分自体か体のその系統に因って動かさなければ,外面的な処置と同じ- 決しても立たない。
その定規落ちた直後,(その“力ませていた,踏ん張っていた”あいだというのは)時間とは無関係だという思い遇った。その持続したあいだは,ある時間的な経過との問題ではなかった。‘ 夢見 ’のこととしていえば,見ようという試みのために( 対象的な観察とは切り離された,これ自体との無関係な態のために )従来のものには寄らない飽和状態からだ。あたかも,これ自体は夢であったか,予め(夢見の)視点に拠ったものではなかった。
[ それは未だ行為のモメントではなかった。]

“私のもの思い”という同一称はセンス-ノンだ-と,(先月から)記述した。“私”が夢であり,投影されたものだったかもしれない-という見方( あのQ&A式以来に再記してきたように, )スタンダードの一般性自身であろうとする意味合いは,ここの本ではない。

2024-01-06:
私は求めるものを食べないようになる。求めるものは二次的だから.
私は以前ひと言“ ラーメンが食べる(食べたい)”という語で,私が食われる(いなくなる)と述べた。ある物(もの)自体が求めているからそれを私が必要としている?と認めたがる,間違っている。

実相と外観 :2024-01-10,