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暗示と変換(引用資料)

2022-09-28: ミルトンエリクソン“療法”に関する本
( そう言えば,2年程まえにザイクやオハンロンを予め資料票のリストにしてあったのだが,未だに読みかけていない, )時間には足りないながら,偶々書棚に遇った“ <レジリエンス>を育てる(Hope & Resiliency, 2005)”というタイトル,切り換えてみている。時折の先例と説明集。“症状”で“セラピストの能力”とは,かち合えないといった見方( 臨床医の役割,第4章, )
エリクソンを“魔法使い-みたいな”と称した側への否定もあるが,いくつか彼のやり方にも間違いはあった,と。
( 今回“ MHエリクソン ”にまつわる話から再感覚されたのは,“ すべてを役割として捉え直す ”である。分割(partitioning)の章には,一見その用語の見当違いみたいに読める処が遇ったが,より示唆した部分でもある。
たとえば私の右半身-動かしにくさについて言えば,敢えて左側に見ようとはしなかった。これは以前にも私自身に因って一度は日記に述べた点だったが-?
たとえばこのような見方は,“逆接のもう一方(の認められなかった可能性)”という,非排除的な認め方にも通じる。 )

..エリクソン催眠には大きな利点が多々あるが、そのひとつは、患者が自分自身を信頼するようになるのに役立つということである。本人が自分の考え方や判断にどれだけ批判的であろうとも、無意識の心はつねに、未開発のリソースとして利用可能な状態にある。自動的に腕が浮揚するなどの催眠現象がはっきり見せられると、患者は自分自身の無意識の学びや無意識の力の強みを認めようという気持ちになる。意識的な気づきという境界の外側に隠されているこのリソースは、自らの心の一部分を完全に信頼できるものとして見る機会を患者に与える。この機会を臨床に応用すれば、自己効力感の上昇が促されるだけでなく、自制の内的根源の働きも促される。..( 第8章 分割 / <レジリエンス>を育てる, )
;“エリクソンの精神療法”という言い回しやタイトルに慎重になるように(-かつて“魔法”と呼んだのは,ある非科学的な評者たちであろう.)催眠に関する諸説に拠れば,“エリクソン催眠”なるものは存在しない,という意見も“ 現代催眠原論(2012)”の一節には無かった( 第6章 エリクソン理論,または第2部(-未読))
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前記の第8章には,エリクソン自身がポリオに罹った後どのように“ 自動書記や, 観念運動信号法 ”の発見に至ったかが簡単に述べられてあった。
..その日家族は、エリクソンをひとり残して出かけていた。彼は体を揺り椅子に結わえてもらい、座っていられるようにしてもらっていた。しかし、部屋のその位置からはたいした眺めも望めなかったので、窓際に近づきたいと思った。そうすれば少なくとも外の世界を眺めて楽しむことができる。彼は、窓に近づくときの動作はどんなものになるのだろうと考えはじめた。ふと気づくと、揺り椅子がゆっくり揺れはじめている.. 前進したいと考えただけで、それまで認識していなかった筋肉の潜在能力を活性化することができたのである。

2022-10-11:
[ “分割”の章は,ある過去の出来事性に意識するに拠って(“曖昧な広範さ”よりも,)先ずそれとの最小の扱いにしてみる,といった言い回しであった。
[反対に,もし(“暗示”の)適用可能な範囲が広ければ,ペーシェントは(その内容を特定されないので)自身の策を見い出そうとするだろう。]
“ <レジリエンス>を育てる ”その日本語訳-副題が私には未だ合わないように,私自身の話題について書く場合には,それらとはまったく語が違う。私は“ あるベクトル線(沿いの)遡上 ”というワードでならそれには反応したかもしれない。
自然本能の領域は動物的な重要さであって,知性的-意識的にはどうしなくても無能だ,というのが私の意(従来のレヴェル)であった。しかし,本能自然の側が知性面よりも事情をなさしめるので( ときに,あたかも超常的にみえる )といった,あの心理学的な捉え方であった。 ]

2022-10-10:
(続き;)ようやく第10章“ 暗示 ”のページに掛かり
;治療効果の有る暗示の定義として,イポリートベルネイム名での“ 考えを作用に変換しようとする傾向治療が起こりそうだという考えに向かう傾向)”という語であった。また,“ プラシーボ療法は暗示療法の別の形態である ”と。
そこで私は,夢に暗示を持ち込むは可能か?とメモしてみた。..が,私のおはなしでは,いや,暗示を夢に持ち込めるか?という。

..<暗示>を戦略的に利用すると、息を飲むような結果をもたらすことができる。一見ありそうもない結果が権威のある人物の活動と結びついている場合、支配という錯覚が生じてしまうのは驚くべきことではない。エリクソンが説明しているように、「暗示を受け入れて、それに反応することによって、被験者は心理的に耳が聞こえなくなり、目が見えなくなり、幻覚を起こし、記憶を失い、感覚が麻痺し、乖離できるようになる。あるいは、その状況において被験者が妥当もしくは望ましいと考えるさまざまな種類の行動を取ることができるようになる」..
その行動は、被験者が妥当だと考えるものでなくてはならない。したがって、暗示を与える側は実質的には支配していない。
さらに、催眠行動はすべて自然に発生する現象であるとエリクソンは主張している。たとえば、スポーツの熱狂的なファンは、サッカーの試合がテレビで放映されているときには心理的に耳が聞こえなくなる。恐怖映画をみたあと、その映画がもたらした恐怖に結びつく光景や音声を幻覚として体験するのは難しいことではない。人に紹介されたのに、五秒後には相手の名前を思い出せなくなっていたという経験は、たいていの人にあるだろう。また、体を激しく使うスリル満点の活動をしたことのある人なら、ひっかき傷や打撲の跡はあるけれど、いつどうしてそのような傷がついたかわからないという状況もよく理解できるだろう。
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外在化された?障害; 2022-10-23

2022-10-10: 中心無音
先週の終わり,‘ 私の雑多な側よりも(関わり無く)中心にだけ完全空間を設定する ’といってみた。瞬間“おはなし”は無くなった[ 今これを記しながら試みた処,身体にあの“震動”が起こりはじめた。 ]
( 私の最初の“おはなし”がおそらくアルバイト先での夜ひとり作業などに因って喚起されたように, )もしとても無音の生活環境だったとしたら,むしろ内的な“お喋り”を招くか,単に意識されないまま外的な仮の自身に好き嫌いと対立しては酷くなるかもしれなかった。しかし,そのような発語が必ずしも胸中や喉といった器官に同一される必要は無いわけだし,これまでの記憶関連やメタファーだとしても,必ずしも常に言葉に依る抽出的作業だとは決めつけられない( “ウクライナ本土が侵攻された”ニュースの初期に,私のおはなしは“ゼレンスキーが来年ロシアにいる”と言った。自己確認や占い事のために何かしら聞いたり言ったりするのは一般的な必然性ではない。 )
だから,私が繰り返し述べたように,逆接的な表れ方を理解しておくのは今後大事なことのためだ。

[ 過去参照は“私の”原則だったが,既に情動には無意味なので,データ記憶も含めて現在の機能以外は無しでいい( “人の世界”に再び自ら乗るのでなければ,否定しても無駄だ。内心に真剣な否定しなければいけないのだとしたら,それは何かの要素だ。
それとも,直前の意図が別のことに綴り替わっている. )]

2022-10-13: “忘れだす”の意味
(あれの忘れかかっている-あいだに条件点ける,)-逆接による暗示的を含む;
自動的な“だれかに関する話題”の既に不愉快な(私の同一的な追随-?)瞬間,‘ 夢だ ’と言ってみる。
出所不明な“なにかに関する話題”との半同一的な語り(の途中‘ 夢だ ’と言ってみる。。)
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敢えて‘ 夢だ ’とは言わないように( ゆっくりと憶い出さなくしながら,何度でも.. ‘ 夢だ ’.. )
[ -瞬間のアイディアは未だに忘れ去られていく途中.. ]

もっと(これからも)ぼんやりしてみる :2022-10-15