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Q&Aの終り

前回: 自発性と能動イメージの初源? 2024-03-07;

2024-03-25:
..肉体や生理的なことがらには依拠しない,これは今回この明晰夢見の脈に於いて確かでなければいけない。
“自発夢”というからには- 夢自体の論理に乗っているのか否か? 先ず明確でなければならない。
性本能との望みや食欲といった好みの同一され易さ,そのような“同乗”に依って(酔客のようにではなく)機械的に利用できる-という意味でなら,夢自体の自動的な論理に(対して)乗った振りをするかもわからない。
“面白がりたい”と-か,観察的視点無しにただ“反応してしまう,” そのような自身とのことはマスターBの問題であって,どれであっても自己投射-“もれ”に過ぎない。但し,通常の明晰夢見では“それら”という扱いになったときに,“こちら”との二重性が起こる。
“これ”と“それら”であることは分離的現象だという認識無しに“明晰夢”として存在しうるのだが,どちらか一方の自動であるとしたら,もう一方が予め自認して“あれ”を視るという原理的構図にはならないだろう。

..このように書いてしまうと,(あたかも“夢”自体の)意図的な論理性として,ある“存在”として認知されうる何らかの働きが潜在している--という見方を従来的に持しているかのようだ。..“私は支持されている(非難されている)”といってみても同じだったのだが,(既に述べてきたように,)観念的である以前に,“それら”は存在しており,“私”への可否という意味合い-存在そのものと言っても認めませんと言っても,本来不可分のものだった-と定義できたなら,この単一性に“憑着する,憑着しない”とは言い分けないだろう。

[ 仮に“テレパシー”のような受動や発信能力が在ったとしても,私は宇宙全体に於いて本当の一個性以上に価値は無いと思っていたし,ずっとそう記してきた。動物は生物本能的に動くが,“存在自体”ではないだろう。それらは保守的な大同意なのか“無関係”なのかに関わりなく,ただしんでいく。
また,私は自由な勝手なテレパシーなんてものは無いとも思っている。なにかに“影響”しうるということは,予めそれらの成分である-と言えるかもしれない( 時空間のマトリックス自体に果たして初めや終りが現に在るだろうか? )]
..私は休憩の合間にインスタントラーメンを茹でたり直接かじったりすることがあるが,時々非常に難しく,なにをしているのかわからなくなりそうだ。そうして,ふときづいたかのように,“ 夢だ ”の機と戻ったりする。

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先ず,なんにでも“第3目的”と言ってみることにした。..それら( “その-,あの-”といった依拠,ある意味,宿命的と思わせるような- )世俗的な拠り所(依り方)であったり,常には追憶に宛っていたのである.

2024-04-04: “調整(の)幻覚”?
今夕,初めて歩道女子2人歩きからしずかに“ ありがとうございました.. 桶田幸志郎さん ”と(きれいな口調で)言ったように聞こえた。自転車での私は自然に縁石へと避けるだけなので,なにも意図は無かった。仮にメンタリスツを自称すれば(他に“自分”と宛てたような)災難も過敏となり,一々“被害者”なる? いまここに“夢”かを問えるだけの私であったら。
そのまえ,久しくに,体自体で走れるかのように(引かずに)行けた,気力的復活かのようであった( そのあいだに,なぜだか“ Nothing's gonna stop me now ”の歌伴奏ユーロビート風と甦っていた。わたしには88年の終わりから90年初め頃までのブームだった。最近私はヴィヴァルディ“ 四季 ”から“ 調和の幻想 ”聴きくらべに移りかけたあとで,以前-自動的なリヴァイヴァルといえば,このまえからのペルゴレージ“ スターバトマーテル ”導入部くらいだった。-だから,あたかもコカコーラやハンバーガーみたいな,“若青いころ”との再生なのだろうと思った。そのころのわたしは見とおしの無い-ポテンツの無さ,唐揚げ感も無く,憂うつだった。
私の右足は確かに動きだしていたので,こちらのユーレイっぽくはなかった。)
2024-02-19に補記したように(;非表示ページ・私は“どこ”へも行かなかった /自動的な能動性との“夢”-問題 2024-02-最下段より- )このところ自然な発酵による酵素の食物と化えようとしているので,従来のAGEsドカ食い好みよりも効いたのかもわからない。

2024-04-08:

目の前のものを再度“観察”する
( 決しても性格-キャラクター性に囚えない。)

私に,なにか?
-かつて私に向けられた“へんな口”は,すべてその後年そのままだった。
このあいだ他宛てには私は一切暗示しないと言った。むかって言ったかのようなどの言葉も(,自己反応であって,)なにも私を表現してはいなかった。
[ “外部”考慮的な比重とされる程に(まるでそれら自身の“問題”であるかのように)逆に口をききはじめる. ある“パーソナリティ”との誹謗中傷は完全に自重されなければいけない。たとえば,暴飲暴食があったとしても,誰も病気のために勝手をしたとは言わないだろう。 昔ロバートデニーロ演じた“ タクシードライバー ”は,鏡の前で“ Me? ”と自身に指さしては,なにかありえない相手を撃つような振りをしていた。]
昨日私はメモ用紙に“ 栄養成分自体;”と記した次に,“ 人間の時間と,霊的理解 ”という,その直前までのメムを書いた。..人類の時間は限られている,-だから無駄な“態度”のためではなく,ひとつきりの命を完全に生き給え ?
..こういう意味では,確かに保守的だ。 今更“しね”とは言わないが,身体的にこの自身に再一致する-という意味でなら,命じたかもしれない。親切だった
[ 自身の右手を見れない“不自由”ゆえに-? 以前“ インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア ”のサントラ盤CDを借りては聴いていた-その最後に,“Madeleine's Lament”だったか,ちょうどあの劇的な曲の途中で音とび遇った。私のつけた傷だとは思わなかったが( 例のように“ -曲目,音とびあり ”とメモして係員に渡しておいた。CD板の時代には時折遇った。
最初,ある時? そう言えば私は一度もあのような映画を自ら劇場の暗がりへと足を運んで観にいこうとはしなかったのだ。)]
-人の望み..? 私は“合い入れること”を二度とあきらめた。
“希望的観測”と不意
-より後のスタックだという言い方は希望的だが,実際には過去のものとみなされる。観測的な“方向”は(いわば)先方から来たのであって,衝動の原因が“むこう”には無いのと等しい。世人のものは原理的動理なので,人間としての訴えはモノマネ看板業みたいだ。それも表面側ではなく裏だ。たとえば“未来社会”という言い方はますますおかしい。
私は度々“夢の原理”と書きつけたが,“夢”には動機が無い。

2024-04-12:
-記憶の子ども.

2024-04-14:
すべてをリラックスさせる。

2024-04-15:
-自動的(自己的な)ものおもい- 気にかかることごとく“ 夢だ ”_何度でも条件点ける