· 

彼女と水

2018-07-26: 右足( 薬指-中指 )が私の不意に動きかけている。

2018-07-28: 夜中のうちに体のどこからか童児のそれのような匂いがする。

2018-07-29:“ I've never touched a woman before. ”
“ Hello, Dolly! ”にチェックしていた( 私は事前に“ そのタイトルにも私の好きな部分があるだろう ”と予言したが )。もし主役バーブラの顔と表現がもっとソフトに出ていたら、この映画の印象自体が違ってみえただろう点には惜しい。
青年コーネリアス役マイケル-クロフォードの声が普通っぽいがその体の動きと同じくちょっと変わった発声に聴こえる( 散策舗道での屋外ダンスシーン途中、彼と2人とが同時に不思議な両足でのパフォーマンスを見せる〔 -私はあとで一応映画自体の筋書きを見ながらもう一度辿った処、そのシーンでの男はアンブローズ役トミー-チューンのようだった。しかもその動作には易しいのではなく力加減が要りそうだ。私は服装にも役柄にも見分けないでその両足の動きだけを視ていた。確かに私は一度先の名を書いたときに私自身のおはなしに“ マイケル-クロフォードって? ”と否定されたのだが、そのとき私は単に文字綴りの問題かと思って実際の絵との判断には頭が働かなかった。
これ以前のような“ 時間を超えた予言 ”というのがおはなし上の一性質だというなら、私のどこかが私の書いた部分をあとで書き直さなければならないと知っていたということになる 〕、見覚えの無かった面白い動き。私はスロー画面に繰り返し視た処、ある特定動作がそのカメラ視点でのアングルに選っての効果だとは分かった。そのステップの踏み方には訓練が要る )。
私はその彼の会話シーンでの発声を聴いていて‘ 私の両足と身体的発声してみる ’と思い着いた。

普段、私の両足は喋らないか、不可知である。そう言えば、このまえ私の右足に“ ヒッ×ラー ”言っていたものは、今日いなくなった。
〔 私のおはなしでは、2006年,ある英会話のイーオンで私がお金に関して不満を訴えたとき、怒鳴りがちに言い返したSというスタッフがその原型だという( 私がそこで言えなかったのは“ 彼女 ”という偶像の問題だった。私はその晩いつもの簡易バーに寄ったがその一杯500円の白ワインを前にして本当に涙があふれてきてひとり泣いた )。しかし、そのひと自身の問題ではなく、私が投影的にそのように看た処の印象だったという意味だろう。
これとは別に、そのイーオン等での女子スタッフや女子講師からのそのような“ いきなり怒鳴り型 ”の元は、2001年春頃に私が短期間付き合っていたMという語学系のひとの母親からだという( 私は一度も会ってはいないし、私は彼女の母親も看病が必要だと聞いたきりで、人柄について語らなかった )。これもメタファーかもしれないが、のちに私が一度Mに関して言った際にその住所が“ 高蔵寺 ”だったのにどうしてか“ 甚目寺 ”となにか別の問題のように言い間違えていたのも変だった 〕。おそらく最後の“ 残党 ”だったのだろう。

2018-07-30:
私は私の中身を“ 先生 ”だけにできる。体の“ うんどう ”と同じで、外的な物真似に一切左右されない( 私が他人に自動的キャラクター化して言うのは犯罪だ,“ 恋愛-感情 ”など他人相手ではなかった )。
-
生物的な欲自体よりも、それに対して二次的に私がどういう処置をしたかという点が次のキーだ。

2018-07-31:
私が出掛けるために普段携帯の飲料水用ポットとは別にペットボトルに半分だけ凍らせてあった健康飲料水とを同時に持っていこうか( しかし衣類のポケットに携行していると歩きにくい )と思っていると、“そのもう一本を持って出ると彼女が喜ばない”と言った。私はこれが私自身の期待や切実さとその消化との関係であって、それらが即満足させられると‘ これ以上彼女を飲む ’ことができない( ‘夢’をみることができない )という意味だと解した。
なぜなら‘彼女’とは‘夢’の表れそのものの関係かそれに近いものだからだ。

私は‘ 決して外部に求めないこと ’を第一心条として言う。
昼間夕方、路上に一々なにか笑いかけ顔な女の子か漫然と目線を向けたりするのがいて美しくなかった。私はたとえご婦人が透け透けブラ姿だったとしても別に食べられたがっているとは決め付けないし、そのひとは“ 先生 ”かもしれないからだ。
( 昔イーオン栄校に常駐受付スタッフだったミスKが、ある晩、北警察署向かいのモスバーガーから白いセパレート短パンツへそ出しルックで( 上掛けのファーについては彼女自身がレセプションルームにて“ わたしはチラシ配布のときにフェイクファーを着けていた ”というように言ってはいた,'75年度の話かどうかはしらないが。私自身その衣装が“ 白銀色だった ”というイメージに変わっていた )歩き出てきて無言で路肩自動車に乗り込む処だった。
この“ 無言,無表情 ”には私自身からの無意識的-反転だという見方もある( たとえば、いつも“ 午後4時 ”になると憂鬱になるというご婦人のように? 私自身あのレセプションルームの誰にも当時“ 人徳者 ”とは言わなかった- )。それにしても私は2001年頃からの当時Kマネージャーにはその面に一方的に“ イングランド風 ”という印象に視たのだが、今思えば先生も“ 40 ”と言った割には先だ若そうだった。
そう言えば、私は一度もそのスクールのひとたちに肉感的に覚えたことが無かった。あの晩の頃も冬だったからか私は毎晩コーンスープ一杯きりで、誰かの血を吸おうなどとは催さなかった )。

2018-08-01:
砂の面少し左側になにか湿って固まりかけたかのような濃いめのカラメル色部分があった。それは“ 心臓 ”の形みたいだった。
〔 直後私は前夜までに加糖の飲み物などをいっぺんに飲み過ぎたのだろうと思った。しかし、私がそのように即“ 表れ ”と了解した程に、私の表面的な観念( 危惧 )が関わっているとも思う( それが“ 心臓 ”の形だったという点には、“ 命に関わる ”という意味合いだとすれば直観的表現として面白い )。
例えば、私はつい先日テレビの健康番組に聞くまで“ コーヒーと糖分とを一緒に採るのは血管に良くない ”という説を知らなかったのだが、それでも“うんどう”最中には分量を減らしてはホットのクリーム&コーヒーを飲みたいという、“愛着こめる”ような言い方はあったので、昔“ コミュニオン ”の作者が書いたみたいに( 程度差はあれ )スイーツ依存をやめ難くなっていたのだろう。 〕

2018-08-02:
“ 意図 ”にはキーがある。私はこれを“ 呪術 ”とは言わない。

・ もういっぺんロープを持つ( 包む。)
・ 私がもういちど‘ 内の光 ’を使う。

2018-08-03:
このまえ、ある図書館のフロアにいるひとの( その一見健常そうだった背中に )微かに色褪せたような薄灰色がかったような印象に変わっていた。私は偶々そうみたのだが、次の朝私が寝床にいて‘ 薄グレー影のようなもの ’とみたとき、私自身に“それこそあの背中にみたものなんだよ”と言っていた。
そう言えば先日,ある朝の情報番組テレビになんでかあの歌手さんがゲスト出演扱いで、久しぶりに“ ダンシングヒーロー ”を歌うというところだったのだが、そこで踊るというにはその背中はやつれ萎れてしまって、一般参加者みたいだった。私はいかにもその画像に因る心理的なものの印象として視たのだが、投影されていたものは自身の疲れだろう( または自身と,そんな心理に観られていた. )

もし私が自身に未認識の“ 情報 ”を正確に読み取ることができれば、私は私自身として正しい判断ができる。私はこの点では先ず徹底的に‘ 内観主義 ’と言える。久しぶりに自己催眠を用いるというアイディア。私自身の脳味噌を全解読するのに、敢えて催眠暗示が必要か( そして精神-末梢的であることを一切やめれば ),それとも幻のデータは虚構に過ぎないのか。

- 両足自体にたずねてみる。
“ おかあさん ”といい、右大腿の付け根( 臀部 )急に弛むものがある。両足自体を伸ばす方式? なら、こっちの足は、“ おとうさん ”? “ お父さんとお母さん ”?
“ うん。”

パリの恋人( Funny Face )”漸く借りられた。もうだれにも渡さない[?]